杜襲(としゅう) ※あざなは子緒(ししょ)

【姓名】 杜襲(としゅう) 【あざな】 子緒(ししょ)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)定陵県(ていりょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第206話で初登場。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・杜襲伝』あり。

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駿馬(しゅんめ)はここにいるぞ、諡号(しごう)は定侯(ていこう)

父母ともに不詳。杜基(とき)は兄。息子の杜会(とかい)は跡継ぎ。曾祖父の杜安(とあん)や祖父の杜根(とこん)は前代において名声があった。

杜襲は動乱を避け、同郡の趙儼(ちょうげん)や繁欽(はんきん)とともに荊州(けいしゅう)へ赴き、劉表(りゅうひょう)から賓客の礼をもって厚遇される。

繁欽は劉表に特に目をかけられていたが、杜襲は言った。

「私がきみと一緒に(荊州へ)来たのは、奥深い藪(やぶ)に龍のごとくジッとわだかまり、時節を待ち、鳳凰(ほうおう)のごとく飛翔(ひしょう)したいからだ」

「なのにきみは、劉牧(りゅうぼく。荊州牧〈けいしゅうぼく〉の劉表)が動乱を収める君主に違いないと決め込み、長者(ちょうしゃ。徳のある人)として彼に身を委ねるつもりなのか?」

「きみがこれ以上、(劉表に)能力を示し続けるなら、もう私の仲間ではない。まずはきみと絶交する」

これを聞くと、繁欽は悲痛な様子で応えた。

「謹んでおっしゃる通りにいたします」

こうして杜襲らは、さらに南方の長沙(ちょうさ)に移った。

196年、曹操(そうそう)が天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を迎えて許(きょ)に都を置くと、杜襲は郷里に戻り、西鄂県長(せいがくけんちょう)に任ぜられる。

この県は国境に接しており、賊が思いのままに侵入し荒らし回った。

当時の県長は住民を引き入れて城に籠もったので、農業ができなくなり、田野は荒廃して民が苦しみ、倉庫も空っぽだった。

杜襲は恩愛をもって住民と団結し、老人や若者を分散させて畑仕事に就かせ、強壮な者を留め置いて城を守らせる。こうしたやり方は官民を大いに喜ばせた。

201年、荊州の劉表配下の歩騎1万が西鄂に攻め寄せると、杜襲は守備に堪えられる官民50余人を召集。彼らと誓約を交わし、城外の親戚を守りたい者には自由に外へ出ることを許した。

だが、みな叩頭(こうとう)し、死力を尽くしたいと望む。

そこで杜襲も矢や石を手に、彼らを指揮して力を合わせる。この様子に官民は感激し、よく命令に従ったという。

敵陣にぶつかり数百の首を斬ったものの、杜襲の配下は30余人が死に、ほかの18人も負傷。ついに賊軍が城内まで入ってくる。

杜襲は官民をひきいて賊の包囲を突破し、何とか脱出。味方のほとんどが戦死したが、裏切る者はいなかった。

やがて、散りぢりになった民を集めて摩陂営(まひえい)にたどり着く。官民が杜襲を慕い、後を追うこと、まるで家に帰るようだったという。

司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)が、杜襲を議郎(ぎろう)・参軍事(さんぐんじ)に任ずるよう上奏し、荀彧(じゅんいく)も同様に推薦する。

これを受け、曹操は杜襲を丞相軍祭酒(じょうしょうぐんさいしゅ)に任じた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国された後、杜襲は王粲(おうさん)・衛覬(えいき)・和洽(かこう)とともに侍中(じちゅう)になる。

王粲は記憶力が抜群で見聞も広く、曹操の車に同乗して出かけることが多かった。それでも曹操の尊敬を受けたことでは、杜襲や和洽に及ばなかったという。

215年、曹操が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)討伐に赴いたとき、杜襲は丞相長史(じょうしょうちょうし)として従軍する。

張魯を降した後、曹操は帰還にあたり、杜襲を駙馬都尉(ふばとい)に任じて留め置き、漢中の軍事を監督させた。

杜襲が民を安んじ教え導くと、自発的に故郷を離れ、洛陽(らくよう)や鄴(ぎょう)へ移住する者が8万余人も出た。

219年1月、夏侯淵(かこうえん)が劉備軍(りゅうびぐん)との戦いで討ち死にすると、魏軍は総指揮官を失ったことで動揺した。

杜襲は張郃(ちょうこう)や郭淮(かくわい)と協力し、軍の事務を取り仕切る一方、非常の措置として張郃を都督(ととく)に推し立て、皆の心をまとめる。

同年5月、長安(ちょうあん)にあった曹操は凱旋(がいせん)にあたり、留府長史(りゅうふちょうし)を選んで長安を鎮守させようと考えた。ところが、担当官吏の推薦する人物のほとんどは適当でないと思える。

そこで曹操は令を下して述べた。

「駿馬を放ったまま乗ろうとせず、なぜよそを探そうとするのか?」

こうして留府長史に起用されたのが杜襲だった。

当時、夏侯尚(かこうしょう。夏侯淵の従子〈おい〉)が王太子(217~220年)の曹丕(そうひ)に近づき、ふたりはとても親密だった。

杜襲は、夏侯尚が曹丕にとって有益な友ではないので、特別な待遇は不要と考え、そのことを曹操に上言する。

この話を聞いた曹丕はひどく不愉快に思ったが、後になって彼の言葉を思い出すことになった。

翌220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、杜襲は関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、杜襲は督軍糧御史(とくぐんりょうぎょし)となり、武平亭侯(ぶへいていこう)に爵位が進む。

後に改めて督軍糧執法(とくぐんりょうしっぽう。出征時に置かれた官名)を務め、中央へ入って尚書(しょうしょ)となった。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、杜襲は平陽郷侯(へいようきょうこう)に爵位が進む。

228年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が秦川(しんせん)へ侵攻してくる。

魏は大将軍(だいしょうぐん)の曹真(そうしん)が諸軍をひきいて防ぐことになり、杜襲も大将軍軍師(だいしょうぐんぐんし)を務める。

この際、杜襲の封邑(ほうゆう)から100戸を分割し、兄の杜基が関内侯に封ぜられた。

231年、曹真が死去すると、司馬懿(しばい)がこれに代わる。杜襲は再び大将軍軍師となり、300戸の加増を受け、以前と合わせて封邑は550戸となった。

後に杜襲は病気のため召し還され、太中大夫(たいちゅうたいふ)に任ぜられる。

やがて杜襲が死去(時期は不明)すると少府(しょうふ)の官位を追贈され、定侯と諡(おくりな)された。息子の杜会が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、あるとき杜襲がひとりで曹操に目通りする機会があり、夜半まで過ごしたそうです。

競争意識の強い王粲は落ち着かず、立ったり座ったりを繰り返しながら言いました。

「いったい公(曹操)は、杜襲と何を話しておられるのだろうか?」

すると、和洽がニヤニヤしながら言います。

「天下のことは切りがないもの。あなたは昼に近侍なさればよい。それなのにここでイライラしておられるのは、もしや夜も近侍なさるおつもりかな?」

この話を「王粲伝」ではなく、「杜襲伝」に載せるところがミソなのでしょうね。

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