鄭渾(ていこん) ※あざなは文公(ぶんこう)

【姓名】 鄭渾(ていこん) 【あざな】 文公(ぶんこう)

【原籍】 河南郡(かなんぐん)開封県(かいほうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鄭渾伝』あり。

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公務に専心し、各地で治績を上げる

父母ともに不詳。鄭泰(ていたい)は兄。息子の鄭崇(ていすう)は跡継ぎ。

鄭渾の高祖父(祖父の祖父)にあたる鄭衆(ていしゅう)やその父の鄭興(ていこう)は、ともに高名な儒学者だった。

兄の鄭泰は、袁術(えんじゅつ)が任命した揚州刺史(ようしゅうしし)として赴任する途中に亡くなった。鄭渾は幼い甥の鄭袤(ていぼう。鄭泰の遺児)を連れて淮南(わいなん)へ避難する。

淮南で袁術に礼遇されたものの、鄭渾は彼が失敗するに違いないと判断した。

ちょうど仲の良かった華歆(かきん)が豫章太守(よしょうたいしゅ)を務めていたので、長江(ちょうこう)を渡って彼のもとに身を寄せた。

後に鄭渾は曹操(そうそう)に召されて掾(えん)となり、下蔡県長(かさいけんちょう)や邵陵県令(しょうりょうけんれい)を務める。

このころ天下は安定しておらず、民はみな軽率で、生業によって財産を増やそうと考えなかった。子が生まれても育てようとせず、取り上げることさえ少ないありさまだった。

鄭渾は漁や狩猟に使う道具を召し上げ、割り当てを決めて農耕や養蚕(ようさん)を行わせる。同時に稲田の開墾を進め、捨て子に対する罪を重くした。

初めは民も罪を恐れて従っただけだったが、やがて生活は豊かになり、みな満ち足りてくる。彼らが育てた男児や女児には(鄭渾の)鄭をあざなとする者が多かったという。

鄭渾は中央へ召し還されて丞相掾属(じょうしょうえんぞく)となり、左馮翊(さひょうよく。左馮翊の長官)に昇進した。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

211年、梁興(りょうこう)らが官民5千余家を取り込んで略奪を働くと、諸県は防ぐことができずに恐慌を来し、県庁を郡都へ寄留させる。

鄭渾は険阻な地へ移って守るべきだという意見を退け、官民を収容したうえで城郭を修理させ防備を整えた。

そこで民を徴発して賊を追わせたが、賞罰を明確にし、鹵獲(ろかく)した物の7割を与えることにする。

民は喜んで賊を捕らえにかかり、多くの婦女を取り戻し、財宝も得た。また、賊のうちで妻子を失った者たちは帰郷して降伏を願い出た。

鄭渾は賊のもとに残っていた他人の婦女について追及した後、そうした妻子らを帰してやる。

その結果、賊は互いに略奪し合うようになり、やがて解散することになった。

また、温情と信義のある官民を山野に遣って説諭させたところ、応ずる者が相次ぐ。鄭渾は諸県の高官をもとの役所へ帰し、彼らを落ち着かせた。

梁興らは恐れをなし、残党を引き連れて鄜城(ふじょう)に集まる。

翌212年、曹操は夏侯淵(かこうえん)を遣り、郡を助けて討伐を命じた。鄭渾は官民をひきいて先頭に立ち、梁興とその一味を斬った。

その後、賊の靳富(きんふ)らが夏陽県長(かようけんちょう)と邵陵県令を脅して従わせ、県下の官民を連れて磑山(がいざん)へ入る。

再び鄭渾は討伐にあたり、靳富らを撃破して両県の令長の身を取り返し、賊に付いていた官民を連れ帰った。

別に趙青龍(ちょうせいりょう)が左内史(さないし)の程休(ていきゅう)を殺害した際も、鄭渾は聞くなり壮士を送り込み、その首をさらす。

前後にわたり鄭渾を頼ってくるものが4千余家あり、山賊も平定され、民は落ち着いて生業に勤しむようになる。やがて鄭渾は上党太守(じょうとうたいしゅ)に転じた。

215年、曹操が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を討伐した際、鄭渾は京兆尹(けいちょういん)に昇進する。

鄭渾は京兆に民が集まってきたばかりだったため、移住の法を制定した。

その法は、家族のいる者といない者をひと組とし、温情や信義のある者と孤独な老人を仲間とし、農事に励ませる一方、禁令を明らかにして悪事を摘発するというもの。

これにより、みな安心して農事に取り組めるようになり、盗賊もいなくなった。

曹操の大軍が漢中へ入ると、鄭渾は兵糧の運搬で第一の成績を上げる。さらに民を遣って漢中の耕作にあたらせたが、逃亡者は出なかった。

曹操は感心し、鄭渾を中央へ呼び戻して丞相掾とした。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、鄭渾は侍御史(じぎょし)に転じて駙馬都尉(ふばとい)の官位を加えられる。次いで陽平太守(ようへいたいしゅ)や沛郡太守(はいぐんたいしゅ)を務めた。

沛の郡境地帯は土地が低くて湿気が多く、水害の恐れがあり、民は飢えに苦しんだ。

そこで鄭渾は、蕭(しょう)と相(しょう)の両県の境界で堤防工事を行い、稲田を開墾しようとする。

民は地勢を案じたが、鄭渾は言った。

「この地は低く落ち込んでいるから、灌漑(かんがい)を図りさえすれば長期にわたって魚と稲の利益が出る。これは民を豊かにする根本なのだ」

こうして自ら官民をひきいて仕事にかかり、ひと冬の間に完成させる。以後、毎年収穫が上がり、田地は年ごとに広がり、従来の倍の租税が納められるようになった。

恩恵を被った民は鄭渾の功を石に刻んでたたえ、彼が築いた堤防を「鄭陂(ていひ)」と呼んだ。

後に鄭渾は山陽太守(さんようたいしゅ)や魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)に転じたが、その統治は先の成功例に倣ったものだった。

郡下の民が材木不足に苦しんでいると知ると、楡(ニレ)を植えさせて籬(まがき)とし、同時に5本の果樹も余分に植えることを義務とする。やがて楡はみな籬となり、5本の果樹も豊かに実った。

魏郡の境界を入ると村落はひとつにまとまっていて、民も十分な財産と豊富な品々に恵まれていた。

曹叡(そうえい)は話を聞くと詔(みことのり)を下して褒めたたえ、あまねく天下に知らせる。鄭渾は将作大匠(しょうさくたいしょう)に昇進した。

そして鄭渾が死去(時期は不明)すると、息子の鄭崇が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「鄭渾は清潔で飾りけがなく、あくまで公事を中心に考えていたため、その妻子は飢えと凍えを免れなかった」ということです。

何人も大儒を出した家の子孫らしい振る舞いですが、妻子が飢え凍えるまでの徹底ぶりとは……。

まぁ、当時は身内さえよければいいと考える高官が多かったようですし、だからこそ鄭渾のような生き方(私生活も含めて)が称賛を得たのでしょうけど――。

大臣の妻子が飢え凍えていて、鄭渾の家というよりも、魏は大丈夫だったのか?

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