張昭(ちょうしょう)A ※あざなは子布(しふ)、呉(ご)の婁文侯(ろうぶんこう)

【姓名】 張昭(ちょうしょう) 【あざな】 子布(しふ)

【原籍】 彭城国(ほうじょうこく)

【生没】 156~236年(81歳)

【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・張昭伝』あり。

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真心のこもった直言を繰り返すも丞相(じょうしょう)には就けず、婁文侯(ろうぶんこう)

父母ともに不詳。張承(ちょうしょう)と張休(ちょうきゅう)という息子がいた。張奮(ちょうふん)は甥。

張昭は若いころから学問を好み、隷書をよくした。白侯子安(はくこうしあん)に『左氏春秋(さししゅんじゅう)』を学び、様々な書物を読んだことで、趙昱(ちょういく)や王朗(おうろう)とともに名を知られるようになったという。

張昭は20歳ごろ、孝廉(こうれん)に推挙されたものの応じず、王朗と旧君の諱(いみな)を避けることについて議論し、陳琳(ちんりん)らの称賛を受けた。

後に徐州刺史(じょしゅうしし)の陶謙(とうけん)から茂才(もさい)に推挙されたが、やはり応じなかったため、腹を立てた陶謙に捕らえられてしまう。このときは趙昱の尽力のおかげで、何とか釈放してもらえた。

後漢末(ごかんまつ)に天下が大いに乱れると、徐州の士人や民の多くは揚州(ようしゅう)へ避難したが、張昭も江南(こうなん)へ移る。

196年、孫策(そんさく)が、呉郡の厳白虎(げんぱくこ。厳虎)や会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗らを撃破して会稽太守を兼ねると、張昭は長史(ちょうし)・撫軍中郎将(ぶぐんちゅうろうしょう)として仕えた。

孫策は、張昭の自宅まで出向いて母親に挨拶するなど、まるで同年配の旧友のごとく振る舞い、文武のことを一任した。

200年、孫策が急死したが、張昭は死に臨んだ彼から弟の孫権(そんけん)を託される。そこで群臣の意見を取りまとめ、孫権を主君に立てたうえ、自ら補佐することになった。

ところが孫権は、突然の兄の死を深く悲しみ、なかなか政治を見ようとしない。張昭は孫権を叱咤(しった)し、馬に乗せて陣中を巡見させる。こうして張昭は孫権の下でも長史を務め、これまで通りの職務をこなす。

209年、劉備(りゅうび)の上表によって孫権が行車騎将軍(こうしゃきしょうぐん)になると、張昭はその軍師に任ぜられた。

孫権は狩猟に行くのが好きで、馬上から虎を射ることを楽しみとしていたが、あるとき突進した虎の前脚が鞍(くら)にかかる。

張昭が軽率さを厳しく諫めると、いったん孫権は詫びたが、すぐに特別な虎狩り用の車を作らせるなどして、結局は態度を改めなかった。

221年、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)が邢貞(けいてい)を遣わし、孫権を呉王に封ずる。

この際、邢貞は車に乗ったまま宮門を通ったので、張昭が無礼をとがめたところ、あわてて邢貞は車から降りた。

やがて張昭は綏遠将軍(すいえんしょうぐん)に任ぜられ、由拳侯(ゆうけんこう)に封ぜられる。

翌222年、孫権が呉に丞相を置こうとしたとき、皆の意見は、張昭こそ、その要職にふさわしいというものだった。

だが孫権は、張昭ではなく孫邵(そんしょう)を起用し、225年に孫邵が没すると、顧雍(こよう)を後任とした。

229年、孫権が帝位に即くと、張昭は老いて病気がちであることを理由に、官職や領地を返上する。

そこで改めて輔呉将軍(ほごしょうぐん)に任ぜられ、席次は三司(さんし。三公)につぎ、婁侯に移封された。封邑(ほうゆう)は1万戸だった。

張昭は自宅で過ごすことが増えたので、『春秋左氏伝解(しゅんじゅうさしでんかい)』や『論語注(ろんごちゅう)』を著す。

232年、公孫淵(こうそんえん)から呉へ帰属したいとの申し入れがあり、孫権は張弥(ちょうび)や許晏(きょあん)らを遼東(りょうとう)に遣わし、公孫淵を燕王(えんおう)に封じようとした。

すると張昭はこれを諫め、公孫淵の本心に帰属の意思はないと述べる。

孫権は日ごろから張昭を礼遇していたが、皆の前で彼にやり込められることも多く、いつも不満を感じていた。

それでも張昭は態度を変えず、私が真心を尽くして直言するのは、死に臨んだ太后(孫権の母の呉氏)さまから後事を託されたためだと言う。

これを聴いた孫権は、手にした剣を投げ捨てて御座を下り、張昭と向かい合って泣いた。

しかし、孫権は張弥らの遼東派遣を取りやめなかったので、張昭のほうも病と称して参内しなくなる。

孫権は恨みを抱き、張昭の屋敷の門を土でふさぐ。それに対して張昭も、屋敷の内側から土を盛り、自ら門を封鎖した。

翌233年、孫権の使者として遼東に赴いた張弥や許晏らが斬られ、公孫淵は彼らの首を魏へ送り届ける。

孫権は自分の判断が間違っていたことを認め、何度も謝意を伝えたが、張昭は屋敷から出てこない。

その後、孫権は外出した折に屋敷を訪ね、門前まで行って自ら声をかけたものの、やはり張昭は病が重いと言い、会おうとしなかった。

孫権は門に火を付けて脅かそうとしたが、張昭は固く門を閉ざすのみ。孫権は火を消すよう命じた後も、久しく門の前に留まる。

そのうち息子たちが張昭を抱えて連れ出すと、孫権は車に乗せて宮殿へ帰り、自分の過ちを深く反省する。以後、張昭は再び朝会に加わるようになった。

236年、張昭は81歳で死去し、文侯と諡(おくりな)される。

すでに長子の張承は侯に封ぜられていたため、末子の張休が父の爵位を継いだ。葬儀は遺言通り質素に執り行われ、孫権も素服(白い着物)を着けて参列したという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によると、孫権は帝位に即いた後、百官を集めた席上で、即位できたのは周瑜(しゅうゆ)の功だと述べます。

このとき張昭は手にした笏(こつ。しゃく。礼装時に帯に挟む板)を挙げ、同じく周瑜をたたえようとしましたが、先に孫権がこう言いました。

「もし張公(張昭)の計に従っておれば、今ごろは人から食べ物を恵んでもらう身の上になっていただろう」

張昭は大いに恥じ入り、地に伏して冷や汗を流したのだと。

実は張昭は(208年の)赤壁(せきへき)の戦いを前に、曹操(そうそう)への降伏論を主張したひとりなのですよね。

この件について裴松之が、張昭が曹操を迎え入れるよう勧めたのは、遠い将来を見通してのことだったのではないかと、張昭に同情的な意見を述べていました。

張昭をはじめとする名士たちの補佐あってこその孫氏でしたが、孫権は口を開けば母の遺託を持ち出す彼の存在を、時には素直に受け入れられなかったのでしょう。

ですが、張昭は紛れもない建国の功臣。彼を丞相とすることを避けた孫権には、狭量なところが感じられます。

あと、本伝では張承が長子となっていましたが、彼のあざなが仲嗣(ちゅうし)で、弟の張休のあざなが叔嗣(しゅくし)であることから、彼らには伯嗣(はくし)のあざなを持つ兄がいた可能性が高いと思われます。

なぜ伯嗣への言及がないのかはわからないのですけど……。

なお『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)には、以下のようにあります。

「兄弟を年齢順に、伯・仲・叔・季(き)・幼(よう)・稚(ち)といい、孟(もう)・仲・叔ともいい、あざなの一字に用いる例が多い」

「長男を孟で示す例としては、曹操(あざなは孟徳〈もうとく〉)や馬超(ばちょう。あざなは孟起〈もうき〉)が挙げられる」

ちなみに前者の例としては、夏侯淵(かこうえん)の息子たちが挙げられていました。

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