楊顒(ようぎょう) ※あざなは子昭(ししょう)

【姓名】 楊顒(ようぎょう) 【あざな】 子昭(ししょう)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第307話で初登場。
【演義】 第103回で初登場。
【正史】 登場人物。

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諸葛亮(しょかつりょう)を案じて入魂の諫言

父母ともに不詳。

楊顒は楊儀(ようぎ)の一族で、蜀(しょく)へ入って巴郡太守(はぐんたいしゅ)となり、後に丞相(じょうしょう)の諸葛亮の主簿(しゅぼ)を務めた。

そして諸葛亮が帳簿にまで目を通している様子を見ると、楊顒はこのように諫めた。

「政治にはあるべき形というものがあり、上下が職分を侵し合ってはなりません。明公(との)のため、このことを一家に例えてご説明させてください」

「いま、とある一家の主人が奴僕を使って耕作させ、婢女(はしため)には炊事を任せ、鶏には朝を告げさせ、犬には盗賊が来たら吠えさせ、牛には重い荷を背負わせ、馬には遠路を行かせたとします」

「こうすれば、おのおの仕事に空白がなく、求めるところはみな満たされ、ゆったりと枕を高くして眠り、ただ飲み食いをしているだけでよいことになります」

「ですが、これらをすべて主人が自分でこなそうとし、他人に任せずに煩雑な仕事を処理しようとすれば、心身は疲れ果て、何ひとつやり遂げられません。これは主人の知恵が奴婢(ぬひ)や鶏犬に劣るためでしょうか?」

「いいえ、それは一家の主人としてのあり方ではないからです。それゆえ古人は『座して道(政治の方針)を論ずる者を三公といい、立ってこれを行う者を士大夫という』とおっしゃったのです」

「それゆえ邴吉(へいきつ。前漢〈ぜんかん〉の宣帝〈せんてい。在位、前73~前49年〉に仕えた丞相)は、道路に死人が横たわっていても問題にしなかったのに、牛があえいでいるのを見ると心配しました」

邴吉は、道路に転がっている死人への対処は丞相の職分ではないが、牛のあえぎからは陰陽の調和が失われた可能性が感じられるため、丞相としてそちらのほうを心配したもの。

「また、陳平(ちんぺい。前漢の文帝〈ぶんてい。在位、前180~前157年〉に仕えた左丞相)は国庫にある金銭や穀物の蓄えをあえて把握しようとせず、それらのことには担当者がいる、と応えたのです」

「彼らはまことに職分をわきまえておりました。いま明公は政治を行われるにあたり、ご自身で帳簿までお調べになり、一日中ずっと汗を流しておられます。これはあまりな働きぶりではございませんか」

諸葛亮は楊顒の言葉を聞き、謝意を表した。

後に楊顒は東曹属(とうそうぞく)として官吏の選抜を担当する。その後、彼が死去(時期は不明)すると、諸葛亮は3日にわたって泣き続けたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記およびその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』によるもの。

楊顒の諫言については『三国志演義』(第103回)や吉川『三国志』(第307話)でも採り上げられていました。

楊顒が言及したような諸葛亮の働きぶりから、彼を真の大器量人ではないと見る向きもありますが、私は劉備(りゅうび)と諸葛亮の深い結びつきを考えたとき、やはり同情的にならざるを得ません。

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