龐統(ほうとう) ※あざなは士元(しげん)

【姓名】 龐統(ほうとう) 【あざな】 士元(しげん)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)

【生没】 179~214年(36歳)

【吉川】 第124話で初登場。
【演義】 第035回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・龐統伝』あり。

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龐徳公(ほうとくこう)から鳳雛(ほうすう)と評価されるも、劉備(りゅうび)の成都(せいと)入城を見ることなく逝く、諡号(しごう)は靖侯(せいこう)

父母ともに不詳。龐徳公は従父(おじ)。龐林(ほうりん)は弟。息子の龐宏(ほうこう)は跡継ぎ。

龐統は若いころ地味で鈍そうに見えたので、まだ彼を評価する者はいなかったという。

20歳の時(198年?)に司馬徽(しばき)と会い、夜まで語り合って高く評価されたことで、徐々に名が知られるようになった。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『襄陽記(じょうようき)』では、龐統が司馬徽に会ったのは18歳の時(196年?)とある。

後に龐統は南郡(なんぐん)の功曹(こうそう)となったが、もともと人物評価を好んでいたこともあり、人材の育成に努める。

そして210年、孫権(そんけん)配下で南郡太守(なんぐんたいしゅ)の周瑜(しゅうゆ)が死去すると、龐統は遺骸を呉(ご)まで送り届けた。

そのころ龐統の名声は呉人(ごひと)の間でも知られており、陸績(りくせき。陸勣)・顧邵(こしょう。顧劭)・全琮(ぜんそう)らと親交を結ぶ。

後に劉備が荊州(けいしゅう)の実権を握ると、龐統は従事(じゅうじ)の身分のまま、耒陽県令(らいようけんれい)を代行する。ところがまったく治績を上げられず、そのうちに免官されてしまう。

この話を聞いた孫権配下の魯粛(ろしゅく)が、わざわざ劉備に手紙を送って述べた。

「龐士元(龐統)は百里(県の広さ)を治めるような才ではございません。治中(ちちゅう)や別駕(べつが)といった任(どちらも州の要職)に就いてこそ、驥足(きそく)を展(の)ぶ(優れた才能を十分に発揮する)ことができるのです」

諸葛亮(しょかつりょう)も口添えしたため、劉備は龐統と語り合い、大器だと見直して治中従事に任じた。

やがて龐統は諸葛亮に次ぐ親愛を得るようになり、ふたり並んで軍師中郎将(ぐんしちゅうろうしょう)となった。

翌211年、劉備が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて益州(えきしゅう)へ入った際、諸葛亮は荊州に留まり、龐統は遠征に従軍した。

こうして劉備と劉璋が涪(ふう)で会見することになると、龐統はこの機会に劉璋を捕らえるよう進言したが、劉備に容れられなかった。

翌212年、劉備は、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を討伐すると見せかけて、葭萌(かぼう)まで来ていたが、ここで龐統は3つの計を献ずる。

上計は、密かに精兵を選び、(軍勢の向きを変えて、)今すぐ昼夜兼行で成都を急襲するというもの。

中計は、関(白水関〈はくすいかん〉)を守っている劉璋配下の楊懐(ようかい)と高沛(こうはい)に使者を遣り、荊州へ帰還することになったと告げる。

そうすれば、ふたりは軽装で挨拶に来るだろうから、そのとき彼らを捕らえ、指揮下の軍勢も奪って成都へ向かうというもの。

下計は、とりあえず白帝(はくてい)まで引き揚げ、次いで荊州へ引き返し、その道中で新たな手段を考えるというもの。

劉備は中計を採り、ただちに楊懐と高沛を斬ると、成都へ向けて進軍を開始。行く先々で勝利を重ねた。

翌213年、涪を攻略して緜竹(めんちく)も降し、続いて雒(らく)を包囲。だがここで、劉璋の息子である劉循(りゅうじゅん)の堅守に手を焼き、戦いが長引く。

翌214年、龐統は雒城攻めの最中に流れ矢を受けて戦死。このとき36歳だった。靖侯と諡(おくりな)され、関内侯(かんだいこう)の爵位を追贈された。息子の龐宏が跡を継いだ。

別に龐統の父(名は不詳)が議郎(ぎろう)に任ぜられ、後に諫議大夫(かんぎたいふ)に転じた。劉備は龐統の死を痛惜し、彼の話をするたびに涙を流したという。

龐統をはじめ、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・黄忠(こうちゅう)に諡号(しごう)が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)3(260)年のこと。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注に引く習鑿歯の『襄陽記』に見えている、龐徳公が付けたという3人の称号が巧いものでした。諸葛亮が「臥龍(がりょう)」で、龐統が「鳳雛」、そして司馬徽が「水鏡(すいきょう)」と。なるほどなと、妙に納得させるものがあります。

『三国志演義』や吉川『三国志』の諸葛亮は、史実に基づかない活躍も数多く盛られていますが――。龐統は、赤壁(せきへき)の戦いまでの設定に疑問を感ずるものの、劉備に仕えた後の献策などは、ほぼ史実に基づいた使われ方をしていました。

なお、劉備軍は213年から雒城攻めに取りかかっていますので、龐統の没年が214年ではなく、213年だった可能性もあると思います。

しかし劉備が涙するまでもなく、やはり龐統の死は惜しかった……。彼が北伐時まで存命だったら、諸葛亮が採りうる戦略の幅は大きく広がっていたことでしょう。

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