馬良(ばりょう) ※あざなは季常(きじょう)

【姓名】 馬良(ばりょう) 【あざな】 季常(きじょう)

【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん)宜城県(ぎじょうけん)

【生没】 187~222年(36歳)

【吉川】 第169話で初登場。
【演義】 第052回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・馬良伝』あり。

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夷陵(いりょう)に散った白眉の才人

父母ともに不詳。馬謖(ばしょく)は弟で、ほかに兄が3人いたと思われる。息子の馬秉(ばへい)は跡継ぎ。

馬良は5人の兄弟みな秀才との評判が高く、郷里では「馬氏の五常、白眉最も良し」と言ったほど。これは馬良の眉に白い毛が交じっていたため、特に彼を白眉と呼んだのだった。

馬良の兄弟全員のあざなに「常」の字が含まれていたことから、五常と称されたという。

208年、劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)の南部を治めるようになると、馬良は召されて従事(じゅうじ)に任ぜられた。

211年、劉備は益州(えきしゅう)に入り、214年には諸葛亮(しょかつりょう)らも荊州から益州へ向かったが、馬良は荊州に留まる。

この年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、馬良は左将軍掾(さしょうぐんえん)に転じた。

このとき劉備は漢(かん)の左将軍だった。

後に馬良が呉(ご)へ使者として遣わされると、孫権(そんけん)は敬意をもって応対したという。

221年、劉備が帝位に即くと、馬良は侍中(じちゅう)に任ぜられる。

この年、劉備が孫権討伐を強行した際、馬良は武陵(ぶりょう)へ赴き、五渓(ごけい)の異民族を帰順させる。

翌222年、劉備は夷陵で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗したが、このとき馬良は戦死。まだ36歳だった。息子の馬秉が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

馬良や馬謖を含めた馬氏の兄弟については、故事成語として現代まで残るほどの優秀さが、(正史の)『三国志』からイマイチ伝わってこないのが残念でした。

ただ本伝には、214年に雒城(らくじょう)の陥落を荊州で知った馬良が、諸葛亮に送った手紙の内容が載せられており、その中で諸葛亮を尊兄と呼んでいることから、裴松之(はいしょうし)は、馬良と諸葛亮が義兄弟の契りを結んでいたか、共通の親戚がいたのだろうと推測していました。

ちなみに諸葛亮は181年生まれなので、187年生まれの馬良より6歳年上になります。いずれにせよ、諸葛亮とそれほど親しかったのなら、馬良には評判通りの見どころがあったのでしょう。

221年に始まった劉備の東征でしたが、結局は国力を浪費しただけに終わりました。軍資の消失もさることながら、以後の蜀を担うはずの馬良ら逸材の戦死は、計り知れない痛手となりましたね。

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