黄皓(こうこう)

【姓名】 黄皓(こうこう) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第112回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・董允伝(とういんでん)』に付された「黄皓伝」あり。

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劉禅(りゅうぜん)の寵愛を笠に着て、蜀を亡国へと導いた宦官(かんがん)

父母ともに不詳。

223年、劉禅は17歳で帝位を継いだが、成長するに従って宦官の黄皓を寵愛するようになった。

黄皓は巧みにへつらい、うまく劉禅に取り入ったので、侍中(じちゅう)の董允からたびたび責め立てられる。

そのため黄皓は董允を恐れ、悪事を働くこともできず、董允の存命中は黄門丞(こうもんじょう)にすぎなかった。

246年、董允が死去し、代わって陳祗(ちんし)が侍中になると、黄皓は彼と助け合い、初めて政務に参与した。

258年、陳祗が死去すると、黄皓は黄門令(こうもんれい)から中常侍(ちゅうじょうじ)・奉車都尉(ほうしゃとい)に昇進。こうして蜀の実権を握るまでになり、ついには国を転覆させるに至った。

263年、魏(ぎ)の鄧艾(とうがい)が成都(せいと)に入ると、黄皓の心事の悪さを聞き知り、捕らえて処刑しようと考える。

だが黄皓は、鄧艾の側近に多額の賄賂を贈って処刑を免れたという。その後の黄皓については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書・姜維伝〈きょういでん〉)によると、263年、魏の鍾会(しょうかい)が関中(かんちゅう)で出撃準備を整えつつあることを察知した姜維は、劉禅に上表して注意を促します。

ところが黄皓は鬼神や巫女(みこ)の言葉を信じ、敵は来ないと考え、劉禅に働きかけて姜維の進言を採り上げませんでした。しかも、蜀の群臣はこのことを何も知らなかったという。

その後、鍾会が駱谷(らくこく)に向かい、鄧艾が沓中(とうちゅう)に侵入すると、蜀は右車騎将軍(ゆうしゃきしょうぐん)の廖化(りょうか)を沓中へ遣って、姜維の援軍とします。

また、左車騎将軍の張翼(ちょうよく)や輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)らを陽安関(ようあんかん)へ差し向けましたが、すでに手遅れでした。

黄皓のような小物が朝廷の実権を握ってしまうとは――。蜀の滅亡も当然と言え、そうした点では劉禅の自覚のなさが残念ですね。

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