張裔(ちょうえい) ※あざなは君嗣(くんし)

【姓名】 張裔(ちょうえい) 【あざな】 君嗣(くんし)

【原籍】 蜀郡(しょくぐん)成都県(せいとけん)

【生没】 166~230年(65歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・張裔伝』あり。

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諸葛亮(しょかつりょう)の北伐時に留守を預かる

父母ともに不詳。息子の張毣(ちょうぼく)は跡継ぎで、張郁(ちょういく)も同じく息子。

張裔は『公羊春秋(くようしゅんじゅう)』を修め、『史記(しき)』や『漢書(かんじょ)』にもよく通じていた。

劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に孝廉(こうれん)に推挙され、魚復県長(ぎょふくけんちょう)となる。やがて益州従事(えきしゅうじゅうじ)に転じて帳下司馬(ちょうかしば)を兼ねた。

211年、劉備(りゅうび)が益州へ入り、翌212年に葭萌(かぼう)から反転して劉璋を攻めた。

214年春、さらに荊州(けいしゅう)に残っていた張飛(ちょうひ)が墊江(てんこう)を経由して益州へ入ってくると、張裔は軍勢をひきいて徳陽(とくよう)の陌下(はくか)で戦い、敗れて成都に帰る。

そして劉璋の使者として劉備に会い、劉璋の礼遇と臣下の身の安全を保障してもらった。

同年夏、劉備が成都で劉璋を降すと、張裔は巴郡太守(はぐんたいしゅ)に任ぜられ、次いで司金中郎将(しきんちゅうろうしょう)に転じて農具や武器の製造をつかさどった。

これより先、益州太守(えきしゅうたいしゅ)の正昂(せいこう)が殺害される。

その地の豪族である雍闓(ようかい)の恩徳や信義は南方に広く知れ渡っていたが、彼は各地へ使者を遣り、遠くは孫権(そんけん)とも誼(よしみ)を通じていた。

そこで張裔が益州太守として赴任するも、雍闓に捕らえられ、孫権のもとへ送られてしまう。

223年、劉備が崩ずると、諸葛亮は鄧芝(とうし)を孫権への使者として遣わし、話のついでに張裔の身柄をもらい受けてくるよう命ずる。

張裔は、呉(ご)へ来てからの数年を流浪して過ごしたので、孫権は彼のことを知らず、鄧芝に連れ帰ってもよいと許可した。

帰国を前にした張裔は孫権と会う機会があり、巧みな受け答えで孫権を感心させる。

だが張裔は、孫権との会見で愚者のふりをしなかったことを後悔し、すぐに船に乗ると、通常の倍の速度で進む。

そのころ孫権は張裔を帰国させるのが惜しくなり、後を追わせたものの、すでに張裔は蜀の永安(えいあん)から数十里も入っていたため追いつけなかった。

こうして蜀への帰国を果たすと、張裔は諸葛亮の参軍(さんぐん)となり、丞相府(じょうしょうふ)の業務を取り仕切ったうえ、益州治中従事(えきしゅうちちゅうじゅうじ)を兼ねる。

227年、諸葛亮が北伐のため漢中(かんちゅう)に進駐すると、張裔は射声校尉(しゃせいこうい)として留府長史(りゅうふちょうし)を兼ねた。

翌228年、遠征中の諸葛亮のもとへ赴き、業務に関する報告を行う。

張裔は輔漢将軍(ほかんしょうぐん)の官位を加えられ、これまで通り長史も兼ねた。そして230年に65歳で死去し、息子の張毣が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、張裔は若いころ楊恭(ようきょう)と仲が良かったそうですが、彼が若死にして、数歳にもならない息子が遺されたといいます。

そこで張裔はこの遺児を迎え、家を分けて住まわせる一方、楊恭の母にも自分の母に仕えるような態度で接しました。

さらに楊恭の息子が成長すると、彼のために妻を娶(めと)ってやり、田宅まで整えて一家を構えさせたという。

史書に通じ、諸葛亮から実務能力を高く評価された張裔ですが、昔なじみへの義理も大切にしたのですね。

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