李譔(りせん) ※あざなは欽仲(きんちゅう)

【姓名】 李譔(りせん) 【あざな】 欽仲(きんちゅう)

【原籍】 梓潼郡(しとうぐん)涪県(ふうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・李譔伝』あり。

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研究対象は経書の枠を越える

父は李仁(りじん)だが、母は不詳。

李仁は同県の尹黙(いんもく)とともに荊州(けいしゅう)へ遊学し、司馬徽(しばき)や宋忠(そうちゅう)らの下で学んだ。

李譔も父の学問を受け継いだうえ、さらに尹黙に就き、書物の説く本質的な道理について研究する。

五経や諸子を通覧し、幅広い技芸にも興味を持つようになると、算術・卜筮(ぼくぜい。占い)・医薬・弓弩(きゅうど)に加え、巧妙な機械仕掛けにまで思いを致したという。

初め李譔は、益州(えきしゅう)の書佐(しょさ)や尚書令史(しょうしょれいし)を務める。

238年、劉禅(りゅうぜん)が劉璿(りゅうせん)を皇太子に立てると、李譔は太子庶子(たいししょし)に転じ、やがて太子僕(たいしぼく)に昇進。

後に中散大夫(ちゅうさんたいふ)・右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)に移るも、なお劉璿のそば近くで仕え続けた。

劉璿から博学ぶりを愛され、大いに気に入られた李譔だったが、彼の本性は軽薄でふざけることも多かったため、世間では重んぜられなかった。

李譔には、古文の『易(えき)』『尚書』『毛詩(もうし)』「三礼(さんらい)」『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』『太玄指帰(たいげんしいき)』に関する著作があった。

これらはみな賈逵(かき)や馬融(ばゆう)の説に基づいたもので、鄭玄(ていげん。じょうげん)の説とは異なっていたという。

三礼は『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』のこと。

その後、李譔は景耀(けいよう)年間(258~263年)に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

幅広い知識を身に付けていた李譔でしたが、具体的な事績についての記事が少ないためコメントしにくいです。『蜀書』は分量も少なく、大まかな経歴をなぞるにとどまった人物が目立ちますね。

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