黄権(こうけん) ※あざなは公衡(こうこう)、魏(ぎ)の育陽景侯(いくようけいこう)

【姓名】 黄権(こうけん) 【あざな】 公衡(こうこう)

【原籍】 巴西郡(はせいぐん)閬中県(ろうちゅうけん)

【生没】 ?~240年(?歳)

【吉川】 第190話で初登場。
【演義】 第060回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・黄権伝』あり。

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3人の主君に仕えながらも貫き通した節義、育陽景侯(いくようけいこう)

父母ともに不詳。息子の黄邕(こうよう)は跡継ぎで、黄崇(こうすう)も同じく息子。

黄権は若いころ郡吏となったが、益州牧(えきしゅうぼく。194~214年)の劉璋(りゅうしょう)に召されて主簿(しゅぼ)に任ぜられた。

このころ別駕(べつが)の張松(ちょうしょう)が、荊州(けいしゅう)から劉備(りゅうび)を迎え、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を討伐してもらうのがよいと建議する。

黄権はこれに反対を唱え、劉備を迎えた場合の処遇の難しさについて述べたものの、劉璋は聞き入れず、彼を広漢県長(こうかんけんちょう)に左遷した。

211年、劉備が劉璋の要請を受けて蜀へ入り、翌212年には葭萌(かぼう)から反転して劉璋を攻めた。

劉備配下の将軍たちが郡県の平定を進めると、みな情勢を見て帰順したが、黄権は城門を閉ざして堅守した。

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降した後、ようやく黄権も出頭して偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられる。

翌215年、曹操(そうそう)が漢中を攻略し、張魯が巴中(はちゅう)へ逃走すると、黄権は劉備の許しを得て護軍(ごぐん)となり、諸将をひきいて張魯を迎えに行く。

しかし、張魯は南鄭(なんてい)に引き返して曹操に降伏したため、黄権らは間に合わなかった。

それでも、後に杜濩(とこ。賨邑侯〈そうゆうこう〉。巴の七豪族のひとり)や朴胡(ふこ。蛮王〈ばんおう〉。同じく巴の七豪族のひとり)を撃破し、夏侯淵(かこうえん)を討ち取り、曹操から漢中を奪取したことについては、黄権の計略に沿ったものだった。

219年、劉備は漢中王となって益州牧を兼ねたが、このとき黄権は治中従事(ちちゅうじゅうじ)に任ぜられた。

221年、劉備が帝位に即くと、自ら孫権(そんけん)討伐の東征を強行しようとする。

黄権はこれを諫め、自身が先鋒を務めたいと願い出たものの聞き入れられなかった。結局、鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)として江北(こうほく)の諸軍をひきい、魏軍(ぎぐん)の動きに備えることになる。

翌222年閏6月、劉備は猇亭(おうてい)で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗を喫し、永安(えいあん)まで退く。

ところが、黄権は道路が遮断されたために戻ることができず、同年8月、軍勢を挙げて魏に降伏した。

黄権の降伏が伝わると、蜀の担当官吏は、法に従って彼の妻子を逮捕したいと申し出る。

だが、劉備はこう言った。

「私が黄権を裏切ったのだ。彼が私を裏切ったのではない」

こうして黄権の妻子の待遇をこれまで通りとした。

曹丕(そうひ)に謁見した際に下問されると、黄権は帰順に至った事情を話し、その態度を評価される。そこで鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・侍中(じちゅう)に任ぜられ、育陽侯に封ぜられたうえ、曹丕の車への同乗を許された。

やがて蜀の降伏者から、黄権の妻子が処刑されたという話が伝えられる。

しかし黄権は信じず、喪を発することもなかったが、そのうちに詳報が入り、やはり彼の思った通りだった(劉備が自分の妻子を処刑していなかった)ことがわかった。

翌223年、劉備の訃報が届くと、魏の群臣はみな賀を述べたが、黄権だけはそうしなかったという。

後に益州刺史(えきしゅうしし)を兼ね、河南尹(かなんいん)に転じ、司馬懿(しばい)にも高く評価された。

239年、黄権は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)に昇進。

翌240年、黄権は死去して景侯と諡(おくりな)され、息子の黄邕が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

劉璋に仕えていたときは、劉備を益州へ迎えることに反対し、劉備に仕えていたときは、孫権討伐の東征に反対した黄権。

彼の不安はいずれも的中してしまいましたが、その時々の節義の示し方は見事なものでした。ただ目先の利益を追っていただけなら、これほど評価されることはなかったでしょうね。

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