呂凱(りょかい)A ※あざなは季平(きへい)

【姓名】 呂凱(りょかい) 【あざな】 季平(きへい)

【原籍】 永昌郡(えいしょうぐん)不韋県(ふいけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第264話で初登場。
【演義】 第087回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・呂凱伝』あり。

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雍闓(ようかい)の誘いをはねつけて永昌郡を守り抜く

父母ともに不詳。息子の呂祥(りょしょう)は跡継ぎ。

呂凱は郡に仕えて五官掾功曹(ごかんえんこうそう)を務めた。

223年、劉備(りゅうび)が永安(えいあん)で崩ずると、越嶲郡(えっすいぐん)では高定(こうてい)が、建寧郡(けんねいぐん)では雍闓が、牂牁郡(そうかぐん)では朱褒(しゅほう)が、それぞれ反旗を翻す。

建寧郡が置かれたのは、正確には225年の諸葛亮(しょかつりょう)の南征後のこと。

また雍闓は孫権(そんけん)に臣従し、永昌太守(えいしょうたいしゅ)に任ぜられていた。

永昌郡は益州郡(えきしゅうぐん)の西にあったが、道路が遮断されて中央との連絡もつかず、ちょうど太守の交代が行われたばかりだった。

そこで呂凱は府丞(ふじょう)の王伉(おうこう)とともに官民を励まし、郡境を閉鎖して雍闓の侵攻を防ぐ。

雍闓は繰り返し檄文(げきぶん)を送り付けたものの、呂凱はこれに与(くみ)せず、あくまで郡民の支持を背景に節義を全うする。

225年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮が南征に乗り出し、その軍勢が進軍の途上にあったとき、雍闓は高定の部下に殺害された。

この年のうちに南征が成し遂げられると、諸葛亮の上表により、呂凱は雲南太守(うんなんたいしゅ)に任ぜられ、陽遷亭侯(ようせんていこう)に封ぜられた。

だが、後に反乱を起こした蛮族に殺害(時期は不明)され、息子の呂祥が跡を継いだという。

管理人「かぶらがわ」より

南中(なんちゅう)の出身者に呂凱のような人物がいたことは驚きでした。

ただかの地では雍闓と同じく、己の利益を図ろうという考え方が一般的だったでしょうから、蜀の統治下に入ることで住民にはどういう恩恵があったのか、イマイチ見えてこないのですよね……。

一方で諸葛亮にとって、西南の奥地にある永昌郡の奮闘ぶりは、涙が出るほどありがたかったに違いありません。

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