蔣琬(しょうえん) ※あざなは公琰(こうえん)

【姓名】 蔣琬(しょうえん) 【あざな】 公琰(こうえん)

【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)湘郷県(しょうきょうけん)

【生没】 ?~246年(?歳)

【吉川】 第204話で初登場。
【演義】 第063回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・蔣琬伝』あり。

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諸葛亮(しょかつりょう)から後事を託された大器、諡号(しごう)は恭侯(きょうこう)

父母ともに不詳。息子の蔣斌(しょうひん)は跡継ぎで、蔣顕(しょうけん)も同じく息子。

蔣琬は20歳にして、外弟(いとこ。父の姉妹の子、もしくは母の兄弟や姉妹の子)の劉敏(りゅうびん)ともども名を知られた。

蔣琬は荊州(けいしゅう)の書佐(しょさ)となり、劉備(りゅうび)に付き従って蜀へ入ると広都県長(こうとけんちょう)に任ぜられる。

その後、劉備が遊覧の帰り、不意に広都へ立ち寄ったことがあった。蔣琬は職務を怠けているように見えたうえ、ちょうど泥酔していたため、激怒した劉備は処刑を考える。

だが、軍師将軍(ぐんししょうぐん)の諸葛亮はこう言って執り成す。

「蔣琬は社稷(しゃしょく。土地と五穀の神。国家)を担う器であり、百里の才(一県を治める才能の持ち主)ではございません。彼の行政は民の暮らしを安定させることを基本としており、見た目を飾ろうとしないので、どうかその点をご推察ください」

劉備は諸葛亮を大いに敬っていたので、蔣琬を免官するにとどめ、それ以上の処罰は加えなかった。

蔣琬は取り調べを受けた後、夜に夢を見る。それは、ひとつの牛の頭が門前に転がり、そこから血が流れ出している、というものだった。

彼はひどく不快に思い、夢占いの趙直(ちょうちょく)を呼んで尋ねる。

すると趙直が答えた。

「血を見るというのは、政治に明るいことを暗示しています。牛の角と鼻とで『公』の字を表しており、あなたは必ず公の位まで昇られるでしょう。これは大吉のしるしですよ」

ほどなく蔣琬は什邡県令(じゅうほうけんれい)に任ぜられる。

219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、蔣琬は中央へ入って尚書郎(しょうしょろう)を務めた。

223年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮が丞相府を開くと、蔣琬は召されて東曹掾(とうそうえん)となる。

さらに茂才(もさい)に推挙されたものの固辞し、劉邕(りゅうよう)・陰化(いんか)・龐延(ほうえん)・廖淳(りょうじゅん。廖化〈りょうか〉)といった面々に譲ろうとした。このときは諸葛亮に諭され、やがて蔣琬は参軍(さんぐん)に昇進する。

227年、諸葛亮が漢中に進駐した際、蔣琬は長史(ちょうし)の張裔(ちょうえい)とともに留守を預かり、丞相府の事務を取り仕切った。

230年、蔣琬は張裔に代わって長史となり、撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)の官位を加えられる。このころ諸葛亮は出兵を繰り返したが、いつも蔣琬が兵糧の供給や兵士の補充を担当し、不足を来さないようにしていた。

234年、諸葛亮が陣没すると、蔣琬は尚書令(しょうしょれい)に任ぜられ、すぐに行都護(こうとご)の官位を加えられて仮節(かせつ)となり、益州刺史(えきしゅうしし)を兼ねる。

翌235年、蔣琬は大将軍(だいしょうぐん)・録尚書事(ろくしょうしょじ)に昇進し、安陽亭侯(あんようていこう)に封ぜられた。

当時は諸葛亮を失ったことで、みな不安や恐れを抱いていた。蔣琬は抜てきされて群臣の上に立ったものの、その振る舞いが普段と変わらなかったため、徐々に人々から心服されるようになったという。

238年、劉禅(りゅうぜん)の詔(みことのり)を受け、蔣琬は漢中に駐留して将軍府を開き、呉(ご)の動きに連動する形で魏(ぎ)への出兵の機会をうかがう。

翌239年、蔣琬は任地にあって大司馬(だいしば)の官位を加えられる。

蔣琬は諸葛亮の北伐を思い起こし、道が険しいために物資の輸送が難しく、それが原因で成果を上げられなかったのだから、今度は水路を使って、東へ攻め下るほうがよいと考えた。

そこで多くの船を造らせ、漢水(かんすい)と沔水(べんすい)から魏の魏興(ぎこう)や上庸(じょうよう)を狙おうとする。ところが続けて持病が再発してしまい、なかなか決行できずにいた。

241年、尚書令の費禕(ひい)と中監軍(ちゅうかんぐん)の姜維(きょうい)が漢中に遣わされ、蔣琬と今後の方針について協議する。

243年、蔣琬は涼州(りょうしゅう)への進攻策を上奏し、姜維を涼州刺史とし、自身は涪(ふう)で後方支援にあたりたいと述べる。

これが劉禅に容れられ、蔣琬は涪に駐留することになったが、この間も病は重くなる一方だった。

246年、蔣琬は死去して恭侯と諡(おくりな)され、息子の蔣斌が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、諸葛亮は蔣琬の忠義や公正さを高く評価しており、いつも「彼は自分とともに王業を支える人物だ」と言っていたそうです。

そして密かに劉禅に上奏し、「もし臣(わたくし)に不幸がありましたら、どうか後事は蔣琬にお任せください」とまで推していたのだとか。

その後を見ると、やはり諸葛亮の目は確かだったと言えます。

もし蔣琬が前面に立ちたがる性格で、後先を考えずに出兵を繰り返していたら、蜀の滅亡はずっと早まったでしょう。

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