劉敏(りゅうびん)

【姓名】 劉敏(りゅうびん) 【あざな】 ?

【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)泉陵県(せんりょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・蔣琬伝(しょうえんでん)』に付された「劉敏伝」あり。

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王平(おうへい)とともに魏(ぎ)の大軍を防ぎきる

父母ともに不詳。蔣琬は外兄(いとこ。父の姉妹の子、もしくは母の兄弟や姉妹の子)にあたる。

劉敏は左護軍(さごぐん)・揚威将軍(よういしょうぐん)となり、鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)の王平とともに漢中(かんちゅう)の抑えを担った。

244年、魏の曹爽(そうそう)が歩騎10余万をひきいて漢川(かんせん)に向かい、その先鋒は駱谷(らくこく)まで侵入する。このとき漢中の守備兵は3万に満たず、蜀の諸将は大いに驚いた。

論者の中に、ここは城を守るべきで、こちらが出て戦わなければ、敵は退くに違いない、と述べた者がいた。

しかし劉敏は、民の男女が野に出ており、穀物が畝に置かれたままだから、もし敵の侵入を許せば大事になる、と反論。すぐに配下をひきいて興勢山(こうせいざん)へ向かい、王平を後詰めに仰ぐ。

劉敏が100余里にわたって多数の旗幟(きし)を立て並べたところへ、大将軍の費禕(ひい)が成都(せいと)から到着したため、すぐさま魏軍は撤退した。

この功により劉敏は雲亭侯(うんていこう)に封ぜられたが、その後については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

なお『三国志』(蜀書・李厳伝〈りげんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に、諸葛亮(しょかつりょう)が尚書(しょうしょ)に提出した文書が引かれています。

これは、231年に李平(りへい。李厳)が免官のうえで庶民に貶(おと)され、梓潼郡(しとうぐん)へ流された際のものですが、この中に行右護軍(こうゆうごぐん)・偏将軍(へんしょうぐん)として劉敏の名も見えました。

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