費禕(ひい) ※あざなは文偉(ぶんい)

【姓名】 費禕(ひい) 【あざな】 文偉(ぶんい)

【原籍】 江夏郡(こうかぐん)鄳県(ぼうけん)

【生没】 ?~253年(?歳)

【吉川】 第276話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・費禕伝』あり。

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天才肌の名宰相ながら報われぬ最期、諡号(しごう)は敬侯(けいこう)

父母ともに不詳。費伯仁(ひはくじん)は族父(おじ)。息子の費承(ひしょう)は跡継ぎで、費恭(ひきょう)も同じく息子。ほかに劉璿(りゅうせん)に嫁いだ娘がいた。

費禕は幼いころに父を亡くし、族父の費伯仁を頼る。費伯仁の姑(おば)は益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)の母だった。そのため劉璋が使者を遣って迎え、これに応じた費伯仁に伴われ、費禕も蜀へ行く。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降すと、費禕はそのまま益州に留まり、そのうち許叔龍(きょしゅくりょう)や董允(とういん)らと等しい名声を得る。

劉備が劉禅(りゅうぜん)を太子に立てたとき、費禕は董允とともに舎人(しゃじん。太子舎人)となり、後に庶子(しょし。太子庶子)に昇進した。

219年に劉禅が(漢中王〈かんちゅうおう〉の)王太子に立てられたときのことなのか、221年に(蜀の)皇太子に立てられたときのことなのかイマイチわからず。おそらく後者だと思われるが……。

223年、劉禅が帝位を継ぐと、費禕は黄門侍郎(こうもんじろう)に任ぜられる。

225年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が南征を終えて凱旋(がいせん)した際、群臣は数十里先まで出迎えた。

このとき費禕より年齢や官位が上の者が多かったものの、諸葛亮は特に費禕を呼び、自分の車に同乗させる。このことがあってから、人々の費禕を見る目が変わったという。

ほどなく費禕は昭信校尉(しょうしんこうい)に任ぜられ、諸葛亮の南征について報告するため孫権(そんけん)のもとへ遣わされる。

孫権には、人をからかって楽しむようなところがあり、配下の諸葛恪(しょかつかく)や羊衜(ようどう)ら弁才のある者たちも、費禕に難題を吹っかけて議論を挑む。

だが、費禕は丁寧な言葉遣いと落ち着いた態度で応じ、道理によって返答したので最後まで屈することはなかった。孫権からも高く評価され、帰国後に侍中(じちゅう)に昇進。

227年、諸葛亮が漢中に進駐すると、費禕は請われて参軍(さんぐん)を務め、使者として漢中と孫権のところを行き来した。

230年、費禕は中護軍(ちゅうごぐん)に転じ、後に司馬(しば)となる。

将軍の魏延(ぎえん)と長史(ちょうし)の楊儀(ようぎ)は互いに憎しみ合い、同席して論争になれば、魏延が剣を突きつけ、楊儀が涙を流す、といったありさまだった。そのようなとき、いつも費禕がふたりの間に入り、諫め諭してその場を収めていたという。

234年、諸葛亮が陣没すると、費禕は後軍師(こうぐんし)となる。

翌235年、費禕は尚書令(しょうしょれい)に昇進。

241年、費禕は中監軍(ちゅうかんぐん)の姜維(きょうい)とともに漢中に遣わされ、大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)と今後の方針について協議する。

243年、蔣琬が漢中から涪(ふう)まで戻って駐留すると、費禕は大将軍・録尚書事(ろくしょうしょじ)に昇進。

翌244年、魏(ぎ)の曹爽(そうそう)が歩騎10余万をひきいて漢川(かんせん)に向かい、その先鋒は駱谷(らくこく)まで侵入する。このとき漢中の守備兵は3万に満たず、蜀の諸将は大いに驚いた。

蜀では鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)の王平(おうへい)と左護軍(さごぐん)の劉敏(りゅうびん)が興勢山(こうせいざん)へ向かい、費禕も節(せつ。権限を示すしるし)を手に、成都から軍勢をひきいて救援に赴く。

費禕の到着を知った魏軍がすぐさま撤退すると、功により成郷侯(せいきょうこう)に封ぜられた。さらに蔣琬が固辞したため、費禕は益州刺史(えきしゅうしし)も兼ねることになった。

248年、王平の死去に伴い、費禕が代わって漢中に駐留するも、蔣琬の時と同様、任地にあって国家の恩賞や刑罰に関する諮問を受け、これらはその後に初めて執行された。

251年夏、費禕は成都に帰還したものの、望気者(普通の人には見えない、王者の気などを見ることができる人物)が、都に宰相の位がなくなっていると述べる。

そこで同年冬、費禕は再び北方へ向かい、漢寿(かんじゅ)に駐留することにした。

翌252年、劉禅から開府を許される。

翌253年、正月の大宴で費禕が泥酔していたところ、魏の降伏者である郭循(かくじゅん。郭脩〈かくしゅう〉)に刺殺されてしまう。

費禕は敬侯と諡(おくりな)され、息子の費承が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『費禕別伝(ひいべつでん)』には、尚書令となったときの費禕の仕事ぶりが採り上げられていました。

そのころは軍事や国政に課題が多く、公務も煩雑だったといいます。ところが費禕の理解力は人並み外れており、報告書にサッと目を通しただけで内容を把握できたそうです。その速さたるや他人の数倍で、一度見たことは決して忘れなかったのだとも。

さらに政務の合間に賓客と会い、飲食をしたり、博奕(ばくえき。ばくち)まで楽しみながら、仕事を怠ることはなかったという。

同じ『費禕別伝』では、費禕は慎み深いうえに質素で、家に財産をため込まなかったことが見えており、子どもたちにも粗衣粗食をさせ、自身の出入りに車騎を従わせず、一般の人々と変わらない様子だったということです。

費禕は諸葛亮と違うタイプの天才型の人物だったと思いますけど、その最期はまことに不運なものでした。この一事をもって警戒心が足りなかったというのは、厳しすぎる気がします。

むしろ魏の降伏者にも気さくに接するところが、彼の長所だったのでしょうから。

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