黄忠(こうちゅう) ※あざなは漢升(かんしょう)

【姓名】 黄忠(こうちゅう) 【あざな】 漢升(かんしょう)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~220年(?歳)

【吉川】 第170話で初登場。
【演義】 第053回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・黄忠伝』あり。

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定軍山(ていぐんざん)で夏侯淵(かこうえん)を討ち取る大功、諡号(しごう)は剛侯(ごうこう)

父母ともに不詳。黄叙(こうじょ)という息子がいたが、早世したという。

黄忠は荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)に仕えて中郎将(ちゅうろうしょう)となり、劉表の従子(おい)の劉磐(りゅうはん)とともに長沙(ちょうさ)の攸県(ゆうけん)を守った。

208年、曹操(そうそう)が荊州を平定すると、黄忠は仮の裨将軍(ひしょうぐん)に任ぜられ、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の韓玄(かんげん)に属した。

そして(この年の赤壁〈せきへき〉の戦いの後、)劉備(りゅうび)が江南(こうなん)の諸郡を手にすると、黄忠は劉備に臣従した。

211年、劉備に付き従って益州(えきしゅう)へ入り、(翌212年に葭萌〈かぼう〉から反転して)劉璋(りゅうしょう)を攻める。その際、黄忠は常に先頭に立って敵陣を陥し、軍中第一の勇敢さを示した。

214年、劉璋の降伏によって劉備が益州の平定を果たすと、黄忠は討虜将軍(とうりょしょうぐん)に任ぜられる。

219年春、漢中(かんちゅう)の定軍山で曹操配下の夏侯淵を斬る大功を立て、征西将軍(せいせいしょうぐん)に昇進。

同年秋、劉備が漢中王になると、黄忠は後将軍(こうしょうぐん)に任ぜられ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

翌220年、黄忠は死去し、剛侯と諡(おくりな)される。息子の黄叙は早世していたため、跡継ぎはなかったという。

黄忠をはじめ、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)に諡号(しごう)が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)3(260)年のこと。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の記事はあっさりとしたもので、『三国志演義』や吉川『三国志』ほど数多くの見せ場はありませんでした。

黄忠が夏侯淵を討ち取ったことは紛れもない大功ですけど、劉備が漢中王に昇った際の叙任については、諸葛亮(しょかつりょう)との間で以下のようなやり取りがありました。

このとき劉備は、関羽を前将軍(ぜんしょうぐん)に、黄忠を後将軍に、馬超を左将軍(さしょうぐん)に、張飛を右将軍(ゆうしょうぐん)に、それぞれ起用しようと考えました。

すると諸葛亮が懸念を示して、こう言います。

「黄忠の名声や人望は、関羽や馬超と同等ではありません。それなのに、いま彼を同列の位に就けようとなさっておられます」

「馬超と張飛は近くにいて黄忠の功を見ておりますから、王(劉備)のお考えを理解させることはできるでしょう。ですが関羽は遠方(荊州)でこの話を聞き、必ず気分を害すると思います。どうもよろしくないのではありませんか?」

しかし劉備は考えを変えず、自ら関羽に説明したのだとか。こういった配慮をしなくてはいけないあたり、劉備や諸葛亮もいろいろ大変だったのでしょう。

そして『三国志』(蜀書・費詩伝〈ひしでん〉)には、関羽に前将軍の叙任を伝える使者を費詩が務めた様子が書かれており、黄忠が後将軍になったと聞いて腹を立てた関羽が、彼を「老兵」呼ばわりしていましたが――。

実のところ、関羽、黄忠とも生年がはっきりしないのですよね。

確かにふたりとも、この時点では若くなかったはずですが、特に『三国志演義』や吉川『三国志』の黄忠の設定は、かなり思い切ったものだという印象を受けました。

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