程畿(ていき) ※あざなは季然(きぜん)

【姓名】 程畿(ていき) 【あざな】 季然(きぜん)

【原籍】 巴西郡(はせいぐん)閬中県(ろうちゅうけん)

【生没】 ?~222年(?歳)

【吉川】 第255話で初登場。
【演義】 第081回で初登場。
【正史】 登場人物。

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忠義を貫き、劉備(りゅうび)の東征時に戦死

父母ともに不詳。程郁(ていいく)と程祁(ていき)という息子がいた。

程畿は劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に漢昌県長(かんしょうけんちょう)に任ぜられる。

漢昌県には凶暴な賨族(そうぞく)が住んでおり、かつて漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が彼らを用い、関中(かんちゅう)を平定したこともあった。

劉璋の時代は天下が動乱期にあり、巴西太守(はせいたいしゅ)の龐羲(ほうぎ)は積極的に私兵を集めていた。

この動きを劉璋に告げた者がいて、龐羲が反乱を企てていると讒訴(ざんそ)したため、劉璋は龐羲に疑いを持つ。

龐羲は、疑われていることを聞き知ると大いに恐れ、守りを固めようと考え、郡吏の程郁を程畿のところへ遣って救援を求める。

しかし程畿は、郡が私兵を集めたのは反乱を起こすためではないはずだとして、疑われて不安だからと異心を抱くのなら、自分はあずかり知らないことだと返答。

さらに程畿は、程郁を戒めて言った。

「私は州の恩義を受けているから、州牧(しゅうぼく。劉璋)に忠節を尽くさなければならない。だが、お前は(巴西郡の)郡吏だから、太守(龐羲)のために力を尽くすべきだ。私のことを考えて二心を抱くな」

龐羲は別に使いを遣り、従わない場合は、郡にいる一家の者に災いが及ぶだろうと脅すも、やはり程畿は承知しない。

程畿の協力が得られないと悟った龐羲は、劉璋に陳謝して処罰を免れる。劉璋は程畿の話を聞き、彼を江陽太守(こうようたいしゅ)に昇進させた。

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降して益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、程畿は従事祭酒(じゅうじさいしゅ)に任ぜられる。

221年、劉備の孫権(そんけん)討伐に従軍する。

翌222年、劉備軍は猇亭(おうてい)で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗を喫し、程畿は長江(ちょうこう)をさかのぼり、退却途中で敵の追撃に遭い、奮戦の末に戦死した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記によるものです。

帝位に即いたばかりの劉備の東征失敗は、蜀の国力を大きく損じただけでなく、程畿のような中堅どころの人材も数多く失われ、取り返しのつかない悪影響をもたらしました。

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