『三国志 Three Kingdoms』の考察 第83話「白帝城に孤を託す(はくていじょうにこをたくす)」

夷陵(いりょう)で呉軍(ごぐん)に大敗した後、白帝城(はくていじょう)に留まったまま成都(せいと)へ戻ろうとしない劉備(りゅうび)。

そして223年、己の死期を悟った劉備は諸葛亮(しょかつりょう)を呼び、跡継ぎについての考えを話し始める。

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第83話の展開とポイント

(01)白帝城

諸葛亮が、呉(ご)へ帰る諸葛瑾(しょかつきん)を船着き場で見送る。

ここで諸葛亮が諸葛瑾に馬謖(ばしょく)の話として、陸遜(りくそん)が魚腹浦(ぎょふくほ)で数頭の馬を使い、八卦(はっけ)の陣を破ったことに触れていた。このシーンのやり取りだけではよくわからなかったが、前の第82話(03)を参照。

劉備が諸葛亮を呼び、これまでの働きに謝意を伝え、諫言を聞かずに夷陵で大敗したことを改めて詫びる。

劉備は、劉禅(りゅうぜん)の補佐役が望みならそうしてほしいと言う一方、劉禅が大業を成す器ではないと見極めたときは、諸葛亮自身が帝位を継げとも言う。

諸葛亮は忠節を貫くと述べ、劉禅を補佐すると誓う。劉備は劉禅に諸葛亮への拝礼を命じ、今後は彼を父と仰いで仕えるよう諭す。

馬謖が劉備に、大臣たちが外で待っていることを伝える。

馬謖が退出した後、劉備は諸葛亮に馬謖をどう見ているか尋ねる。諸葛亮は、当代の英才で陸遜にも劣らないと答える。

しかし劉備は、馬謖の言葉が誠に大仰(おおぎょう。大げさ)だとし、大事は任せられないだろうと告げる。

劉備は諸葛亮に外で待っている皆を呼び入れるよう言うが、ほどなく息を引き取る。

亡くなる直前の劉備が劉禅に、(『史記〈しき〉』の)「高祖本紀(こうそほんぎ)」を暗唱させていた。前より少しだけ覚えた劉禅だったが、結局まともに暗唱できず、最期まで劉備を悲しませるという設定。ここまでやる必要があったのか。暗唱のくだりについては先の第76話(08)を参照。

劉備が亡くなったあとナレーションが入っていた。「西暦223年、劉備は大業の半ばで白帝城に崩御(ほうぎょ)した。享年63。劉禅が位を継ぎ、蜀漢(しょくかん)は劉禅の時代となった」と。

(02)建業(けんぎょう) 孫小妹(そんしょうめい)の墓前

諸葛瑾が孫権(そんけん)のもとに戻り、再び蜀との連盟が成立したことを報告。

ここで孫権は諸葛瑾に、劉備が夷陵で大敗した後、孫小妹が何も食べずに病を発し、そのまま亡くなったことを知らせる。さらに諸葛瑾は孫権に、劉備が亡くなったことも伝える。

ここでは孫小妹が亡くなった日を4月25日とし、劉備が亡くなった日を4月24日としていた。

孫小妹(孫夫人)について『三国志演義』(第84回)では、猇亭(おうてい)で蜀軍が敗れた後、劉備も戦死したという誤報が流れ、それを聞いた孫夫人は長江(ちょうこう)に身を投げて死んだことになっていた。

なので、このドラマではさらに踏み込んだ設定を採っていると言える。なお、正史『三国志』は孫夫人の死に触れていない。劉備の死については吉川『三国志』、『三国志演義』、正史『三国志』とも223年4月24日ということで一致している。

(03)洛陽(らくよう) 司馬懿邸(しばいてい)

曹丕(そうひ)が司馬懿を訪ね、劉備が白帝城で亡くなったことを伝える。

曹丕は蜀を討伐する考えを示す。司馬懿も賛意を示したうえ、5つの大軍を用いて諸葛亮の動きを封ずるよう献策する。

その第一は曹丕が書状をしたため、鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)に使者を遣わす。金などの賄賂を贈り、精鋭10万を出兵させて西平関(せいへいかん)を取るというもの。

西平関は『三国志演義』における創作の関名。

その第二は蛮王(ばんおう)の孟獲(もうかく)に恩賞を与え、蛮兵10万を出兵させて益州(えきしゅう)を攻めるというもの。

その第三は蜀から降った孟達(もうたつ)に新城(しんじょう)の兵10万を出兵させ、漢中(かんちゅう)を攻めるというもの。

その第四は建業へ使者を遣わして孫権と修交し、成功の折には益州を山分けすると約束。孫権に兵10万を出させてセンキョウ(?)を攻略し、フジョウ(?)を取るというもの。

「センキョウ」はよくわからなかったが、「フジョウ」は涪城(ふうじょう)のことか。涪城は「フジョウ」とも読むが、先の第65話(01)などでは「フウジョウ」と読んでいた。こういう揺れがあるとわかりにくい。白帝城(永安〈えいあん〉)の東には巫(ふ。巫城)という場所もあるので……。

その第五は知勇を備えた将軍を大都督(だいととく)に任じ、精鋭10万を預けて陽平関(ようへいかん)を取るというもの。

曹丕は司馬懿の策をたたえ、大都督の人選について尋ねる。すると司馬懿は自身がその役目を願い出る。だが曹丕は、司馬懿の身を危険にさらしたくないと言って聞き入れなかった。

その代わり司馬昭(しばしょう)を洛陽の主簿(しゅぼ)から中郎将(ちゅうろうしょう)に抜てきし、司馬懿ともども軍議に加わるよう命じた。

(04)成都

劉禅のもとに急ぎの知らせが4つも届く。

その第一は鮮卑の軻比能が10万の軍勢をひきい、西平関を攻めているというもの。

その第二は蛮王の孟獲が10万の蛮軍をひきい、益州南部の各郡を攻めているというもの。

その第三は蜀から魏(ぎ)に降った孟達が曹丕の命を奉じ、漢中を攻めているというもの。

その第四は魏の大将軍(だいしょうぐん)の曹真(そうしん)が20万の軍勢をひきい、陽平関に迫っているというもの。

この知らせを受けた劉禅は、諸葛亮が病と称して朝議に姿を見せないことに動揺する。

(05)丞相府(じょうしょうふ)

劉禅が諸葛亮を訪ね、四方面から攻撃を受けていることを伝える。

諸葛亮は、西平関には馬超(ばちょう)を遣わせばよいこと。

孟獲に対しては魏延(ぎえん)を遣わし、左右交互に兵を動かす疑兵の計を用いること。

陽平関へはすでに趙雲(ちょううん)を遣わし、守りを固めていること。

孟達へは生死をともにする契りを交わした李厳(りげん)の書状を届け、利害を説かせたこと。

このような四方面への対応を明かしたうえ、万一に備えて張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)に3万の兵を預け、各地の救援を命じてあることも話す。

ここで諸葛亮が劉禅に、陽平関に向かっている曹真の軍勢は15万の精鋭だと言っていた。20万ではなかったのか? なお『三国志演義』(第85回)では、五方面軍いずれも10万とある。

さらに諸葛亮は、連盟を結んでいる孫権にも注意が必要だと話し、魏の使者が呉へ向かっていると推測する。

諸葛亮は呉へ使者を遣わし、孫権に大義と利害を説明させるよう勧める。そのための使者として馬謖を起用し、劉禅の許しを得た。

(06)建業

孫権が魏の使者に会うことを引き延ばし、10日以上も宿で待たせる。孫権は張昭(ちょうしょう)に、魏の四方面攻勢の状況を見たうえで進退を判断したいと話す。

張昭は、(魏から受けている)蜀を討伐するという提案を承諾したように見せかけ、実際の進軍時期は定めないよう進言する。

そこへ孫権のもとに魏の使者からの伝言が届く。本日中に目通りできないときは魏と敵対すると見なし、許都(きょと)へ報告に戻るというもの。

ここでは洛陽でなく許都の名を挙げていた。曹丕が許都に行幸していたという意味なのだろうか?

孫権は顧雍(こよう)に魏の使者を呼ぶよう命ずるが、ちょうど蜀の使者として馬謖が着いたとの知らせが届く。

孫権は、馬謖が持参したという諸葛亮の書簡に、魏の四方面攻勢への防御策が書かれているのを見て、諸葛亮に勝算があることを察する。

張昭は孫権に、この諸葛亮の書簡そのものが疑兵の計かもしれないと言い、馬謖に会って真偽を試すよう勧める。

孫権は進言を容れ、大きな鼎(かなえ)に油を煮えたぎらせ、屈強な兵士を並べたうえ、馬謖を呼び入れて話を聴くことにする。

管理人「かぶらがわ」より

曹操(そうそう)の死から3年余り、ついに劉備も亡くなってしまいました。

しかし、なぜこのドラマでは呉へ遣わした使者を鄧芝(とうし)ではなく、馬謖ということにしたのでしょう。後で馬謖がヘマをやるので、ここで異才ぶりを強調しておく意図があるのでしょうか?

確かにドラマの元ネタになっている『三国志演義』では、正史『三国志』のエピソードから別人に手柄を付け替える手法が目立ちます。その中にはまったくの創作よりひどいと感ずるものもありました。

それが、ドラマでも同様の手法が使われるとは――。

つながりがないように見える記事が、後で別の記事とつながっていたりもします。こういう付け替えは安直だと思います。

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