【姓名】 文欽(ぶんきん) 【あざな】 仲若(ちゅうじゃく)
【原籍】 譙郡(しょうぐん)
【生没】 ?~258年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第109回で初登場。
【正史】 登場人物。
呉(ご)へ亡命後、不仲だった諸葛誕(しょかつたん)の援軍となって死す
父は文稷(ぶんしょく)だが、母は不詳。文俶(ぶんしゅく。文鴦〈ぶんおう〉)と文虎(ぶんこ)という息子がいた。
文欽は名将(文稷)の息子として、若いころから勇武の才を評価されていたという。
219年、相国西曹掾(しょうこくせいそうえん)の魏諷(ぎふう)が鄴(ぎょう)で反乱を起こしたとき、文欽は魏諷に連なる言葉を吐いていたため投獄され、数百回の鞭(むち)打ちを受けたものの、父の文稷の功により許された。
文欽は曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)に五営校督(ごえいこうとく)となり、地方へ出て牙門将(がもんしょう)を務める。
彼は気性が荒いうえに礼儀をわきまえなかったので、どのような官職に就いても上官をばかにし、法にも従わない。そのためよく弾劾を受けたが、いつも曹叡が抑えてくれた。
後に文欽は再び淮南(わいなん)の牙門将となり、廬江太守(ろこうたいしゅ)・鷹揚将軍(ようようしょうぐん)に昇進した。
ところが、王淩(おうりょう)が文欽の貪欲さや残忍さを問題視し、辺境の鎮撫(ちんぶ)には不適当だと上奏。職を免じて断罪していただきたいと要請する。
こうして文欽は召し還されたものの、同郷の曹爽(そうそう)は彼に関わる事件を取り調べることなく厚遇。
やがて文欽は盧江に戻されたうえ冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)の称号を加えられ、かえって高位と恩寵を得た。
その後、ますます彼は付け上がるようになり、いっそう尊大な振る舞いを見せ、軍中で虚名を博すことになったという。
249年、曹爽が処刑されると、朝廷では文欽を前将軍(ぜんしょうぐん)に昇進させ、彼の心を落ち着かせようとした。
後に文欽は諸葛誕に代わり、揚州刺史(ようしゅうしし)に任ぜられる。それでも曹爽の処刑後、内心で不安な気持ちを抱くようになった。
だが、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の諸葛誕とは仲が悪かったので、彼に謀反の相談をしたりはしなかった。
252年、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)が諸葛誕と交代し、鎮東将軍になる。
文欽は勇敢でたびたび戦功を立てており、曹爽と同郷でもあった。しかし、捕虜や戦利品の数量を水増しして恩賞を求めるようなところがあり、多くの場合は上申通りに認められず、恨みを募らせていたという。
毌丘倹は(司馬氏〈しばし〉打倒の)考えがあって文欽を厚遇し、これに感激した文欽も忠実な態度で接する。
255年1月、長さ数十丈もある彗星(すいせい)が現れ、西北の空いっぱいに尾を引く。それは呉と楚(そ)の分野(ぶんや。〈呉や楚に相当する〉星座)にあたっていたため毌丘倹と文欽は喜び、自分たちにとって瑞兆(ずいちょう)だと考える。
そこで郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の詔(みことのり)を偽作。大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)の罪状を書き連ねて郡国へ送るとともに、兵を挙げて反乱を起こした。
同年閏(うるう)1月、毌丘倹の命を受け、文欽は楽嘉(らくか)にいた兗州刺史(えんしゅうしし)の鄧艾(とうがい)を攻めたものの敗れ、ほどなく呉へ亡命する。
呉では、文欽を都護(とご)・仮節(かせつ)・鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)・幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任じ、譙侯(しょうこう)に封じた。
★文欽は、魏(ぎ)では使持節(しじせつ)・前将軍・山桑侯(さんそうこう)だったという。
文欽は孫峻(そんしゅん)から厚遇されたものの、他国に身を置いているのにへりくだることができなかったため、呂拠(りょきょ)や朱異(しゅい)を始めとする呉の諸将に憎まれた。
257年5月、諸葛誕が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こす。
同年6月、諸葛誕の救援要請に応え、呉は文欽・全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)・唐咨(とうし)・王祚(おうそ)らに3万の軍勢を付けて派遣した。文欽らは魏軍の包囲が完成しないうちに、何とか寿春城へ入る。
翌258年1月、文欽は、北方の出身者を城外へ出して兵糧を節約し、呉の人々と城を固守したいと進言するが、諸葛誕は聞き入れない。
このことからふたりは憎み合うようになり、ほどなく文欽は諸葛誕に殺害された。
文欽の死を聞き、息子の文鴦と文虎は身ひとつで城外へ逃れ、魏の大将軍の司馬昭(しばしょう)に帰順した。
司馬昭はふたりを処刑せず、かえって上奏して将軍に任じたうえ、関内侯(かんだいこう)に封ずる。
同年2月、魏軍の総攻撃を受けた諸葛誕は城外で戦死。司馬昭は、文鴦と文虎に文欽の遺体を収容することを許し、車と牛も支給。先祖の墓まで運んで葬らせたという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・毌丘倹伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』、および『三国志』(魏書・諸葛誕伝)によるもの。
文欽は、父の文稷の功や曹氏と同郷だったことだけで厚遇されたように描かれていましたが、もちろん本人の武勇には見るべきものがあったのだと思います。
ですが、司馬氏打倒を目指して挙兵した毌丘倹や諸葛誕と関わりがあったため、このような人物像になってしまったのでしょう。
気の毒とは思えませんけど、仲の悪かった諸葛誕への援軍に駆けつけた末、その諸葛誕に殺害されるというのは皮肉な最期でした。
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