李厳(りげん)

【姓名】 李厳(りげん) 【あざな】 正方(せいほう)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~234年(?歳)

【吉川】 第203話で初登場。
【演義】 第064回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・李厳伝』あり。

諸葛亮(しょかつりょう)への責任転嫁が露見し、配所で病死という最期

父母ともに不詳。のちに「李平(りへい)」と改名した。息子の李豊(りほう)は跡継ぎ。

李厳は若いころ郡吏となり才幹をたたえられ、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)の下で郡県の長官を歴任する。

208年、曹操(そうそう)が荊州へ侵攻した際、李厳は秭帰県(しきけん)を治めていたが、そこから西方の蜀へ赴く。到着後、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)から「成都県令(せいとけんのれい)」に任ぜられ、ここでも有能との評判を得た。

213年、李厳は「護軍(ごぐん)」として緜竹(めんちく)で劉備軍(りゅうびぐん)を防いだが、ほどなく配下の軍勢をひきいて降伏し、劉備の「裨将軍(ひしょうぐん)」に転ずる。

翌214年、劉備が成都で劉璋を降した後、李厳は「犍為太守(けんいのたいしゅ)・興業将軍(こうぎょうしょうぐん)」に昇進。

218年、盗賊の馬秦(ばしん)や高勝(こうしょう)らがシ県(しけん。妻+阝)で反乱を起こし、数万の人々を集めて資中県(しちゅうけん)に至る。

このとき劉備は漢中(かんちゅう)にあったが、李厳は新たに兵士を徴発せず、5千の郡兵をひきいて討伐にあたり馬秦や高勝らの首を斬った。これを受け残党は四散し、みな民の戸籍に戻ったという。

また、越嶲(えっすい)の蛮族の頭目である高定(こうてい)が、軍勢を遣って新道県(しんどうけん)を包囲させた際も、李厳が救援に駆けつけ賊軍を敗走させた。功により「輔漢将軍(ほかんしょうぐん)」の官位を加えられ、「犍為太守」の地位もこれまで通りとされた。

222年、李厳は永安宮(えいあんきゅう)の劉備から召されて「尚書令(しょうしょれい)」に任ぜられる。

翌223年、劉備の病状が重くなると、李厳は諸葛亮とともに遺詔を受け、若い劉禅(りゅうぜん)を補佐することになった。李厳は「中都護(ちゅうとご)」となって内外の軍事を統べ、永安に駐屯した。

この年、劉備が崩じ劉禅が帝位を継ぐと、李厳は「都郷侯(ときょうこう)」に封ぜられたうえ「仮節(かせつ)」となり「光禄勲(こうろくくん)」の官位を加えられる。

226年、李厳は「前将軍(ぜんしょうぐん)」に転じた。

翌227年、諸葛亮が軍勢をひきいて漢中に出ると、李厳は後事を取り仕切るよう命ぜられ江州(こうしゅう)へ移駐。代わって護軍の陳到(ちんとう)が永安にとどまり、李厳の指揮下に入った。

230年、李厳は「驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)」に昇進。

この年、魏(ぎ)の曹真(そうしん)らが三道から漢川(かんせん)に向かおうとしたため、李厳は諸葛亮の命を受け、2万の軍勢をひきい漢中に赴く。このとき息子の李豊が「江州都督(こうしゅうのととく)・督軍(とくぐん)」となり留守中の諸事をつかさどった。

諸葛亮は翌年に出兵するつもりだったので、李厳が「中都護」のまま漢中の政務を取り仕切ることになる。また、このころ李厳は「李平」と改名した。

翌231年春、諸葛亮は祁山(きざん)に布陣し、李平が軍需物資の輸送を監督。しかし夏から秋にかけて長雨の被害があり、輸送もつながらなくなる。

そこで李平は参軍(さんぐん)の狐忠(こちゅう)と督軍の成藩(せいはん)を遣わし、そうした事情を伝えて諸葛亮に帰還を促す。

ところが実際に諸葛亮の軍勢が引き揚げたと聞くと、驚いたふりをして言う。

「兵糧は十分に足りているのに、なぜ帰ってきたのか!」

これは自身が不手際の責めから逃れるため、諸葛亮が進軍しなかったことに責任を転嫁しようとしたものだった。

さらに李平は劉禅に上表し、「わが軍の撤退は見せかけで、賊(魏軍)を誘い込んで戦おうとしているのです」と説明。

結局、諸葛亮が李平から受け取った書状を整理して提出したので、李平の言い分に矛盾があることがはっきりする。彼は弁解できなくなり、罪を自白して陳謝した。諸葛亮の上表により、李平は免官のうえ庶民に貶(おと)され梓潼郡(しとうぐん)へ流された。

234年、李平は諸葛亮が亡くなったと伝え聞くと、自身も病を発し死去した。彼はいずれ諸葛亮が呼び戻してくれるものと期待していたが、その後継者たる余人では無理だと考えてもいたため、憤激して病を得たのだという。

なお、息子の李豊は免官されず、のち「朱提太守(しゅしのたいしゅ)」まで昇進した。

管理人「かぶらがわ」より

劉表・劉璋・劉備の3人に仕えて能力を評価され、劉禅の時代には「驃騎将軍」まで昇った李厳でしたが……。彼は私利を優先するところがあり、諸葛亮ほど国に尽くすという思いを持っていなかったように見えます。

ただ、軍需物資の輸送の件で諸葛亮に責任を転嫁しようとしたにもかかわらず、「泣いて李厳(李平)を斬る」とはなっていないのですよね。諸葛亮としてもこういうバランスでよかったのでしょうか?

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