夏侯尚(かこうしょう)

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【姓名】 夏侯尚(かこうしょう) 【あざな】 伯仁(はくじん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~225年(?歳)

【吉川】 第219話で初登場。
【演義】 第070回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・夏侯尚伝』あり。

愛妾(あいしょう)を失い心身を病む。昌陵悼侯(しょうりょうのとうこう)?

父母ともに不詳。夏侯儒(かこうじゅ)は弟。夏侯淵(かこうえん)は従父(おじ)にあたる。息子の夏侯玄(かこうげん)は跡継ぎ。

夏侯尚は204年に曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を平定した際、「軍司馬(ぐんしば)」として騎兵をひきいた。

のち曹丕(そうひ)が「五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)」だったとき(211~217年)、その「文学(ぶんがく。官名)」を務めて親しくなった。

216年、曹操が「魏王(ぎおう)」に封ぜられると(魏の)「黄門侍郎(こうもんじろう)」に栄転する。

218年、代郡(だいぐん)で蛮族の反乱が起こると、曹操は息子の曹彰(そうしょう)に討伐を命じたが、このとき夏侯尚も「参軍事(さんぐんじ)」として従軍。

220年1月、曹操が洛陽(らくよう)で崩ずると、夏侯尚は柩(ひつぎ)を奉じて鄴(ぎょう)へ戻った。前後にわたる功績が採り上げられ、「平陵亭侯(へいりょうていこう)」に封ぜられ「散騎常侍(さんきじょうじ)」に任ぜられる。次いで「中領軍(ちゅうりょうぐん)」に昇進した。

同年10月、曹丕が帝位に即くと「平陵郷侯(へいりょうきょうこう)」に爵位が進み、「征南将軍(せいなんしょうぐん)」に栄転。「荊州刺史(けいしゅうのしし)・仮節(かせつ)・都督南方諸軍事(ととくなんぽうしょぐんじ)」を兼ねることになった。

この年、夏侯尚は曹丕に上奏して許しを得たうえ、上庸(じょうよう)の劉備軍(りゅうびぐん)を撃破。上庸・西城(せいじょう)・房陵(ぼうりょう)3郡の9県を平定し「征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)」に昇進した。

222年、曹丕が呉(ご)討伐のため宛(えん)まで行幸。夏侯尚は諸軍をひきいて曹真(そうしん)と協力し、江陵(こうりょう)を包囲する。このとき孫権(そんけん)配下の諸葛瑾(しょかつきん)の水軍を撃破したものの疫病の大流行があり、詔(みことのり)によって魏軍は引き揚げた。

夏侯尚は600戸の加増を受け、以前と合わせ封邑(ほうゆう)は1900戸となる。さらに「鉞(えつ。指揮権を示す『まさかり』)」を授けられたうえ「荊州牧(けいしゅうのぼく)」に昇進。

そのころ荊州は荒れ果てており、もとの住民の多くは江南(こうなん)へ移住していた。夏侯尚は上庸から道路を整備し、西方へ700里(り)以上も軍を進めた結果、山岳地帯の住民や蛮族から多くの者が服従するようになり、その数は5、6年で数千家に上ったという。

224年、「昌陵郷侯」に移封される。

夏侯尚の妻は曹氏一族の娘(曹真の姉妹)だったが、彼にはお気に入りの愛妾がいて妻を顧みなかった。このことを知った曹丕は人を遣り愛妾を絞殺させる。

すると夏侯尚は悲嘆に暮れ、病を得て精神的な不調を来す。思慕の念を抑えきれず、埋葬した愛妾を墓から掘り出し顔を見る、といったありさまだった。

それを聞いた曹丕は腹を立てたが、先帝(曹操)以来の重臣だったため、夏侯尚への恩寵が薄れることはなかった。

翌225年、夏侯尚は重体となり都(洛陽)へ帰還。たびたび曹丕は屋敷まで行幸し、彼の手を握って涙を流したという。ほどなく夏侯尚は死去。「悼侯」と諡(おくりな)され息子の夏侯玄が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

夏侯尚の生年はわかりませんが、曹丕とは同年配だったと思われます。曹操の冀州平定戦のころから従軍しており、事績にも数々の戦功が見えました。

ですが妻と愛妾の件は、いったいどうしたのでしょうか? よほど妻に気に入らないところがあったのか、愛妾がよほど器量よしだったのか? いずれにせよ、いくら思慕の念が抑えきれなかったとしても、墓から掘り出すというのはちょっと怖いですね。

なお、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』に、夏侯尚が亡くなった際に出されたという曹丕の詔が載せられており、夏侯尚の内外の働きを肉親同然と高く評価したうえ、彼が不幸にも早死にしたこと、そして「征南大将軍・昌陵侯」の印綬(いんじゅ)を贈ったことが書かれていました。イマイチはっきりしないのですけど、これは「昌陵侯」の爵位が追贈されたということらしい。

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