【姓名】 杜恕(とじょ) 【あざな】 務伯(むはく)
【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)杜陵県(とりょうけん)
【生没】 ?~252年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・杜畿伝(ときでん)』に付された「杜恕伝」あり。
的を射た激烈な上奏文を連発
父は杜畿だが、母は不詳。杜理(とり)と杜寛(とかん)は弟。息子の杜預(とよ)は跡継ぎ。
★杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。
224年、杜恕は杜畿が死去したため跡を継ぎ、豊楽亭侯(ほうらくていこう)に封ぜられた。
曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)に散騎侍郎(さんきじろう)となり、ほどなく黄門侍郎(こうもんじろう)に転ずる。
杜恕は誠実で表面を飾ることがなかったので、若いころに名声を得られなかったが、出仕後も仲間や後ろ盾を作らず公務に専念した。
政治に過ちがあるたび、国家の大綱を引き合いに出して正論を吐き、侍中(じちゅう)の辛毗(しんぴ)らから高く評価された。
当時、官僚の間では政治の得失に関する議論が盛んだったが、杜恕は刺史(しし)に兵を宰領させず、民政に専心させるべきだと主張する。
また、勤務評定の制度を定め、中央と地方の官吏を評価することについても大いに論議があった。
杜恕は上奏文の中で、人材の登用は州郡からの4科目(秀才〈しゅうさい〉・孝廉〈こうれん〉・孝悌〈こうてい〉・能従政〈のうじゅうせい〉)の推挙によるのが当然だとした。
まずは明確に資格のある者を調査して起用し、試験的に公府へ召し出す。
そして民と接する県の長官に任命し、功績の順に郡守(ぐんしゅ。太守〈たいしゅ〉)へ昇進させる。この際、場合によっては俸禄を増やし、爵位を授けてもよい。
こうしたことが勤務評定における急務だと述べる。
さらに、誰かを高官に取り立てたり、何らかの進言を採用するにあたっても、州郡での行政実績を評定する法を細かく制定し、法の施行後は必ず約束通りに与えられる恩賞を設け、併せて必ず実行される刑罰も設けておく。
公卿(こうけい)についても同様に、職務に従って働きぶりを評定すべきである、とも述べた。
しかし、杜恕の主張した勤務評定は施行されないまま終わった。
尚書郎(しょうしょろう)の廉昭(れんしょう)は才能により抜てきされたものの、あれこれ問題を見つけて発言することを好んだ。
杜恕は上奏文を奉り、忠義の臣下は必ずしも親愛されておらず、親愛されている臣下は必ずしも忠義ではないとしたうえ――。
親愛されている臣下は嫌疑を受けないので、物事に対して自分の考えを十分に述べることができるが、親愛されていない臣下はそうできないと指摘。
これでは大臣が一身の安泰のみを図って官位を保ち、ジッとして利害や得失を観望するだけとなり、次代の訓戒の対象になると憂えた。
加えて、官吏の選抜がいい加減なことは重大問題だとも述べ、廉昭らの不正な言葉に耳を貸さないよう切諫する。
杜恕は朝廷に8年いたが、その剛直な論議はこのようなものであった。
その後、地方へ出て弘農太守(こうのうたいしゅ)となり、数年後に趙国相(ちょうこくしょう)に転じたが、病気のため辞職する。
後に平民から再起用されて河東太守(かとうたいしゅ)となり、1年余で淮北都督護軍(わいほくととくごぐん)に昇進したが、またも病気のため辞職する。
しばらくして杜恕は御史中丞(ぎょしちゅうじょう)に任ぜられる。だが、彼は時の朝臣たちと折り合いが悪く、たびたび外の任務に就かされた。
杜恕は再び地方へ出て幽州刺史(ゆうしゅうしし)となり、建威将軍(けんいしょうぐん)の称号を加えられ、使持節(しじせつ)・護烏丸校尉(ごうがんこうい)に転ずる。
そのころ征北将軍(せいほくしょうぐん)の程喜(ていき)が薊(けい。幽州の州治)に駐屯していたので、尚書の袁侃(えんかん)らは杜恕に忠告する。
「程申伯(ていしんはく。申伯は程喜のあざな)は先帝(曹叡)の時代、青州(せいしゅう)にいた田国譲(でんこくじょう。国譲は田豫〈でんよ〉のあざな)を陥れたことがある」
「いま足下(きみ)は田国譲と同様、節(せつ。権限を示すしるし)を杖として同じ城に駐屯されることになった。どうか深く心して程申伯を処遇されるように」
★程喜は青州刺史を務めていたとき、汝南太守(じょなんたいしゅ)兼青州軍総指揮官として青州にいた田豫を讒言(ざんげん)により陥れたことがあった。
それでも杜恕は気に留めなかった。
杜恕が幽州へ着任して1年もしないうち、鮮卑族(せんぴぞく)の有力者の息子が規則に違反し、国境の砦(とりで)を通らず、数十騎を連れて真っすぐ州城へやってくる。
そこで州では一行の中にいた子どもひとりを斬ったが、杜恕は曹芳(そうほう)に報告書を提出しなかった。
すると程喜がこの件を採り上げ、杜恕を弾劾する上奏文を奉る。杜恕の身柄は廷尉(ていい)のもとへ下され、その罪は死刑に該当するとされた。
249年、父の杜畿が勤務中に水死したことが考慮され、杜恕は死刑を免れて平民に貶(おと)されたうえ、章武郡(しょうぶぐん)へ流された。
その後、8節にわたる「体論(たいろん)」や1編の「興生論(こうせいろん)」を著す。
252年、杜恕は配所(章武)で死去した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると「杜恕は任地にあって大筋をつかむことに努めるだけだった。そのため恩恵や愛情を行き渡らせ、(月日の経過とともに)いよいよ民の歓心を得た点では(父の)杜畿に及ばなかった」といいます。
杜恕は父の杜畿ほど人心の掌握に長けていなかったようですね。
そのぶん剛直すぎるほど剛直な態度を貫き、時の天子(てんし)への直言を繰り返しました。ホント、これが激烈な内容ばかり……。
この記事では杜恕の上奏文などを詳細に採り上げることはできませんでしたが、彼の指摘するポイントは的を射たものが多かったと思います。
そういった問題点からは曹叡以降の魏の衰退がうかがわれ、やがて来る滅亡の予兆すら感じられました。
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