杜畿(とき)

【姓名】 杜畿(とき) 【あざな】 伯侯(はくこう)

【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)杜陵県(とりょうけん)

【生没】 163~224年(62歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・杜畿伝』あり。

河東(かとう)在任は通算16年。著しい治績を上げる

父母ともに不詳。息子の杜恕(とじょ)は跡継ぎで、杜理(とり)と杜寛(とかん)も同じく息子。

杜畿は前漢(ぜんかん)の「御史大夫(ぎょしたいふ)」を務めた杜延年(とえんねん)の子孫である。杜延年の父の杜周(としゅう)は南陽(なんよう)から茂陵(ぼうりょう)に移住した。そして杜延年が杜陵に移り、子孫は代々この地に住むことになった。

杜畿は若いころ父を亡くし継母からいじめられたものの、孝行者として名を知られた。

182年、20歳で郡の「功曹(こうそう)」となり「鄭県令(ていけんのれい)」を代行。のち孝廉(こうれん)に推挙され「漢中府丞(かんちゅうふのじょう)」に任ぜられる。

天下が混乱すると官を捨てて荊州(けいしゅう)へ行き、建安(けんあん)年間(196~220年)に入ってから帰郷した。やがて荀イク(じゅんいく)の推挙を受け曹操(そうそう)に仕え、「司空司直(しくうしちょく)」となる。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

その後、「護羌校尉(ごきょうこうい)・持節(じせつ)」に昇進し「西平太守(せいへいのたいしゅ)」を兼ねた。

曹操が河北(かほく)を平定した後、205年に高幹(こうかん)が幷州(へいしゅう)を挙げて背く。この際、ちょうど河東太守の王邑(おうゆう)が朝廷に召される。河東の衛固(えいこ)と范先(はんせん)は表向き王邑を留任させるよう請願しながら、実のところ高幹と通じていた。

曹操は河東で騒乱が拡大することを案じ、荀イクに、蕭何(しょうか。前漢の功臣)や寇恂(こうじゅん。後漢の功臣)のような人物の推挙を求める。そこで荀イクが杜畿を推すと、曹操は「河東太守」として起用した。

しかし、衛固らが数千の兵をもって陝津(せんしん)の渡し場を遮断したため、杜畿は黄河(こうが)を渡ることができない。そこで曹操は夏侯惇(かこうとん)を差し向けたが、杜畿は援軍の到着を待つことなく、すぐに1台の車に乗って出かける。

これは、河東にある3万戸の者すべてが反乱を起こしたいと思っているわけではない、と見てのことで、夏侯惇がひきいてくる大軍で迫れば、きっと善人までも衛固の言いなりになってしまう。そうしてひとつにまとまれば、衛固らも必死で戦うに違いなく、彼らに勝てなければ動乱も収まらない。

また、たとえ彼らを討伐して勝ったとしても、郡内は破壊され民を破滅させることになる、と考えたからだった。さらに、衛固らがはっきりと詔(みことのり)を拒んではいないため、新たな主君(杜畿自身)を殺さないに違いないとも思われた。

杜畿は抜け道を使い、トウ津(とうしん。豆+阝)から黄河を渡る。范先は彼を殺すことで民を威嚇(いかく)しようと考えたものの、とりあえず様子を見ることにした。

郡の主簿(しゅぼ)以下の30余人を殺されても杜畿は平然としていたので、衛固は彼の身が自分たちの手にあることから、殺してもいたずらに悪評を立てられるだけだと考え、結局は杜畿に仕えるふりをした。

杜畿はふたりを持ち上げ、衛固を「都督(ととく)」として「郡丞」の事務も執らせ、「功曹」を兼ねさせる。范先には将校や軍吏を含む3千余の兵の指揮を任せた。

衛固が兵を大動員すると言いだすと、杜畿は民を騒がせないほうがよいと説き、ゆっくりと資金をかけて募集させる。数十日して騒ぎは収まったが、将校らは貪欲で、多数の応募者があると言って金を受け取りながら、実際は少しの兵しか出さなかった。

加えて杜畿は衛固らに、みな家のことが気にかかっているだろうから、何度かに分けて将校や属官に休暇を与えるよう勧める。その結果、善人は外にあってひそかに杜畿の味方となり、悪人は分散してそれぞれの家へ帰ったので、彼らのまとまりも失われた。

このような状況の中、張白騎(ちょうはくき)が東垣(とうえん)を攻め、高幹は濩沢(かくたく)へ侵入。上党(じょうとう)の諸県では高官が殺され、弘農(こうのう)では太守が捕らえられる。衛固らはひそかに兵を動員したが、まだ集まりきらなかった。

杜畿は(河東の)諸県が自分に味方することを察していたので、わずか数十騎だけで出陣し、張辟(ちょうへき)まで出て賊を防ぐ。官民は城を挙げて杜畿を助ける者が多く、数十日後には手勢も4千余に増えた。

衛固らは高幹や張晟(ちょうせい)とともに攻めたが陥せず、諸県を荒らしても得るところはない。そのうち夏侯惇の大軍が到着すると高幹や張晟は敗れ、衛固らは処刑される。彼らの残党についてはみな赦免され、平時の仕事に戻ることになった。

当時、天下の郡県はみな破壊されてしまったが、河東はいち早く安定を取り戻したため被害も少なかったという。

杜畿は寛大と恩恵を尊び、住民に干渉しなかった。管轄下の県に布告して、孝子や貞婦、よく祖父母に仕える孫などを推挙させ、彼らの労役を免除したり時節ごとに激励した。

また、牝牛(ひんぎゅう)や牝馬を割り当てて住民に飼育させ、鶏・豚・犬のことに及ぶまで規則を定める。人々が農業に励み、家々も豊かになってきたころ杜畿が言った。

「民は富んだ。次は教育をしなければならない」

冬期には軍事訓練を行う一方、学校を開設し、自ら経典(けいてん)を手に教授する。それに伴い郡中も教化されていった。

211年、韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)が反乱を起こすと、弘農および馮翊(ひょうよく)では県や邑(まち)を挙げて呼応する者が多かった。だが、河東は賊と境を接していたにもかかわらず、二心を持つ民がいなかった。

曹操が西征し蒲阪(ほはん)まで来ると、渭水(いすい)を挟み賊軍と対峙(たいじ)する。このときすべての兵糧を河東に仰いだが、賊軍を撃破してなお20余万石(せき)の蓄えがあった。杜畿の功績は高く評価され、俸禄が「中二千石」に引き上げられる。

213年、魏が建国されると杜畿は「尚書(しょうしょ)」への就任が決まった。ところが改めて辞令が下され、河東の重要性を考慮した曹操から引き続き「河東太守」を任される。杜畿は河東に通算16年間も在任したが、常に天下第一の治績を上げたという。

215年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を討伐したとき、杜畿は5千の人夫を遣って運送にあたらせたが、みな自発的に努め、最後までひとりの逃亡者も出なかった。

220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王(ぎおう)」を継ぐと杜畿は「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられ、中央へ召し還されて「尚書」となる。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、杜畿は「豊楽亭侯(ほうらくていこう)」に爵位が進む。100戸の封邑(ほうゆう)を賜り「司隷校尉(しれいこうい)」を代行。

222年、曹丕が呉(ご)を討伐した際、杜畿は「尚書僕射(しょうしょぼくや)」として留守中の政務を取り仕切る。

224年、曹丕が許昌(きょしょう)へ行幸した際も同じく留守を預かった。

杜畿は詔を受けて楼のある御座船(皇帝〈こうてい〉が乗る船)を造ったが、陶河(とうが)で試運転を行ったとき強風で転覆してしまう。

この事故で杜畿が溺死すると、曹丕は彼のために涙を流した。そして「太僕(たいぼく)」の官位を追贈し「戴侯(たいこう)」と諡(おくりな)する。息子の杜恕が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

杜畿の死について、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には以下のような話がありました。

以前、杜畿はある童子に出会い、こう言われます。

「司命(しめい。生命をつかさどる神)が私に、あなたを呼んでくるようおっしゃいました」

杜畿が強く延命を願うと、さらに童子が言いました。

「それではこれから代わりになる者を探しますから、あなたはよく注意して、このことを黙っていてください」

言い終わると、たちまち童子の姿は見えなくなります。

それから20年が過ぎ、杜畿はついそのときの話をしてしまいました。すると彼はその日のうちに(御座船が転覆して)亡くなったのだとか。このとき62歳だったとも。不思議な記事の真偽はともかく……。確かに杜畿は曹丕が死を惜しむほどの名太守ではありました。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】