傅嘏(ふか)

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【姓名】 傅嘏(ふか) 【あざな】 蘭石(らんせき)

【原籍】 北地郡(ほくちぐん)泥陽県(でいようけん)

【生没】 209~255年(47歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・傅嘏伝』あり。

魏の難局で意見を述べるも、早い段階から司馬氏(しばし)寄り。陽郷元侯(ようきょうのげんこう)

父は傅充(ふじゅう)だが、母は不詳。傅睿(ふえい)は祖父。傅巽(ふそん)は伯父。息子の傅祗(ふし)は跡継ぎだが、このほかにも息子がいたことがうかがえる。

傅嘏は前漢(ぜんかん)の傅介子(ふかいし)の子孫である。

班固(はんこ)の『漢書(かんじょ)』(西域伝〈せいいきでん〉)によると、傅介子は昭帝(しょうてい。在位、前86~前74年)の元鳳(げんぽう)4(前77)年、大将軍(だいしょうぐん)の霍光(かくこう)の上言により楼蘭(ろうらん)へ遣わされた。金と幣(きぬ)を贈るという名目で楼蘭王の安帰(あんき)をだまし、酒宴の席で壮士ふたりとともに王を斬殺したという。

傅嘏は20歳(228年)のころには名を知られており、司空(しくう。226~236年)の陳羣(ちんぐん)に召され「掾(えん。司空掾)」を務める。

曹叡(そうえい)の景初(けいしょ)年間(237~239年)、劉劭(りゅうしょう)が詔(みことのり)を受けて『都官考課(とかんこうか)』72か条および「説略(せつりゃく)」1編を作った。この案を三公の役所に下ろし審議することになると、傅嘏はこう批判した。

劉劭は前代の任免や昇進および降格に関する文章に根拠を求めているが、その制度はほとんど欠如もしくは散逸している。

だが、現在の大魏では便宜的な方策と法律とを併用し、すべての官吏は軍事と国政の両方を通じて任命されており、時宜に適した措置を取り政治の変化に対応している。過去の方策を現代にそのまま用いようとしても、事態が複雑で状況も異なっているから困難である、と。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)の初め、傅嘏は「尚書郎(しょうしょろう)」を経て「黄門侍郎(こうもんじろう)」に昇進。

当時は大将軍の曹爽(そうそう)が実権を握っており、何晏(かあん)が「吏部尚書(りぶしょうしょ)」を務めていた。

傅嘏は曹爽の弟の曹羲(そうぎ)に何晏の内実を告げ、彼と距離を置くよう助言する。このことから何晏らの恨みを買い、小さな事件にかこつけ免職とされてしまう。

その後、無官の身から「滎陽太守(けいようのたいしゅ)」として起用されたものの就任しなかった。のち太傅(たいふ。239~251年)の司馬懿(しばい)に招聘(しょうへい)され、「従事中郎将(じゅうじちゅうろうしょう)」となる。

249年に曹爽らが処刑されると、傅嘏は「河南尹(かなんのいん)」を経て「尚書」に転じた。

252年4月、呉(ご)の孫権(そんけん)が死去する。

これを受けて魏では、征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の王昶(おうちょう)を始め、征東将軍(せいとうしょうぐん)の胡遵(こじゅん)や鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)らが上奏文を奉り、呉の征討を望んだ。

このとき彼らの作戦に異同があったため、曹芳は詔を下し傅嘏の意見を聴く。

傅嘏は将軍らの作戦に一定の評価をしながらも、今は軍を進めつつ田作を行わせるのが安全だとし、将軍らには要害を選んで腰を据えさせ、三方から同時に守備陣を前進させるよう勧め、このようにすることの7つの利点を挙げてみせる。

つまり大いに田作を行い、時間をかけ敵に迫っていくのが最良の計略だと述べた。だが彼の意見は容れられず、同年11月、王昶らに呉征討の詔が下る。

同年12月、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)や胡遵らが歩騎7万で東興(とうこう)を包囲するも、大軍をひきいて駆けつけた呉の諸葛恪(しょかつかく)に大敗。このため南郡(なんぐん)へ向かっていた王昶、武昌(ぶしょう)へ向かっていた毌丘倹とも、翌253年にかけて引き返すことになった。

続いて諸葛恪が、勝利に乗じて青州(せいしゅう)や徐州(じょしゅう)へ侵攻する動きを見せたため、魏は防備を整えようとした。

しかし傅嘏は、淮水(わいすい)も海も簡単に通れないとし、両州に対しては示威行動をさせているだけであり、諸葛恪自身は淮南(わいなん)を狙っているのだと述べる。

同年(253年)夏、やはり合肥新城(ごうひしんじょう)が諸葛恪に包囲されたものの、秋には呉軍が撤退した。

いつも傅嘏は才能と性格が一致するかどうかについて論じていたが、鍾会(しょうかい)はそれらを集め論述したという。

嘉平(かへい)年間(249~254年)の末、傅嘏は「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられた。

翌254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと「武郷亭侯(ぶきょうていこう)」に爵位が進む。

翌255年1月、鎮東将軍の毌丘倹と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽(ぶんきん)が淮南で反乱を起こす。このとき大将軍の司馬師(しばし)が出向かずとも、太尉(たいい)の司馬孚(しばふ)を行かせればよいとの意見もあったが、傅嘏と王粛(おうしゅく)だけは司馬師に行くよう勧めた。

そこで(目の上にできた瘤〈こぶ〉を切ったばかりで、まだ傷の状態が思わしくなかった)司馬師が出撃することになり、傅嘏も「尚書僕射(しょうしょぼくや)」を代行して従軍する。こうして毌丘倹と文欽を撃破できたことについては、傅嘏の策謀が貢献した。

同年閏(うるう)1月、司馬師が許昌(きょしょう)で死去すると、傅嘏は衛将軍(えいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)とともに洛陽(らくよう)へ帰還。

司馬昭が政治を補佐することになると、傅嘏は「陽郷侯」に爵位が進む。600戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1200戸となった。

この年のうちに傅嘏が47歳で死去すると、「太常(たいじょう)」の官位を追贈され「元侯」と諡(おくりな)される。息子の傅祗が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝にも見えた何晏のほかに、裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』によると、傅嘏は、高い名声のあったトウ颺(とうよう。登+阝)や夏侯玄(かこうげん)についても評価せず、彼らから交際を求められても受け入れなかったそうです。

『傅子』に挙げられている傅嘏の友人としては、荀粲(じゅんさん)と鍾会、そして冀州刺史(きしゅうしし)の裴徽(はいき)、散騎常侍(さんきじょうじ)の荀カン(じゅんかん。虎+甘)、鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)の何曾(かそう)、司空の陳泰(ちんたい)、尚書僕射の荀ギ(じゅんぎ。豈+頁)、後将軍(こうしょうぐん)の鍾毓(しょういく)がありました。

このうち荀ギと荀粲は兄弟で、荀イク(じゅんいく)の息子。荀カンは荀ウン(じゅんうん。忄+軍)の息子で、荀イクの孫にあたります。何曾は何夔(かき)の息子。陳泰は陳羣の息子。鍾毓と鍾会も兄弟で、鍾繇(しょうよう)の息子ですね。

傅嘏は曹氏や夏侯氏の大物を評価しておらず、免職に追いやられた後、司馬懿の招きで再登用されたりもしていますので……。比較的に早い段階から司馬氏寄りだったのではないかと思います。

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