虞汜(ぐし) ※あざなは世洪(せいこう)

【姓名】 虞汜(ぐし) 【あざな】 世洪(せいこう)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)

【生没】 218?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・虞翻伝(ぐはんでん)』に付された「虞汜伝」あり。

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孫綝(そんりん)の野望を打ち砕いた諫言

父は虞翻だが、母は不詳。虞汜自身は四男で、虞忠(ぐちゅう。五男)・虞聳(ぐしょう。六男)・虞昺(ぐへい。八男)はみな弟。合わせて11人兄弟だったという。

233年、虞汜は虞翻が配所の交州(こうしゅう)で死去した際に帰郷を許される。このとき16歳だった。

258年、大将軍(だいしょうぐん)の孫綝が孫亮(そんりょう)を廃し、琅邪王(ろうやおう)の孫休(そんきゅう)を帝位に即けようとする。しかし、孫綝は孫休の到着を待たずに宮中へ入り、自ら帝位をうかがう態度を見せた。

孫綝に意見を求められた百官がみな恐れ口をつぐむ中で、虞汜だけが正論を述べて諫める。孫綝は不愉快に感じたものの、結局は孫休を帝位に即けることにした。

この年、孫休が帝位を継ぐと、虞汜は選曹郎(せんそうろう)から散騎中常侍(さんきちゅうじょうじ)に昇進。

271年、虞汜は監軍使者(かんぐんししゃ)として扶厳(ふげん)の討伐で功を立て、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・交州刺史(こうしゅうのしし)に任ぜられ余姚侯に封ぜられたものの、ほどなく病死した。

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管理人「かぶらがわ」より

本伝の記事はごくわずかなので、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』からいくつか拾ってみました。

『会稽典録』には、虞汜が南海郡(なんかいぐん)で生まれたことや、父の死に伴い帰郷を許されたとき16歳だったとあったのですけど――。虞翻が配所の交州で死去した233年から計算すると、虞汜は218年に南海郡で生まれたことになると思います。

虞翻は何度か流刑に遭っていますが、交州への強制移住は221年に孫権が呉王に封ぜられた後ですので、この辺りの記事についてはよくわからないところが残りました。

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