【姓名】 孫誼(そんぎ) 【あざな】 ?
【原籍】 呉郡(ごぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫河(そんか)の息子
父は孫河だが、母は不詳。孫助(そんじょ)は兄で、孫桓(そんかん)と孫俊(そんしゅん)は弟。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、孫誼は海塩県長(かいえんけんちょう)となったが早くに亡くなったという。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫誼の父の)孫河はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」ということです。
一方で同じく「孫韶伝」の裴松之注に引く韋昭(韋曜)の『呉書』によると、「孫河は孫堅(そんけん)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)であり、姑(おば)の愈氏の養子となったが、後に孫姓に戻った」ということでした。
両者の記事は内容が異なっていますけど、どちらが正しいのかは判断がつきません。
また、孫河は204年に嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)によって殺害されましたが、なぜ孫誼ら息子ではなく、甥の孫韶が残された軍勢を取りまとめたのかも引っかかります。
これは、そのとき17歳だったという孫韶より、孫誼らがさらに年少だったということでしょうか?
なお、弟の孫桓には独立した伝があり、その生年が198年だったこともわかります。204年の時点で孫桓は7歳ですから、これだと17歳の孫韶が引き継いだほうがいいですね。
孫誼は生没年がはっきりしないため、孫桓との年齢差もわかりません。やはり孫韶より年少だったのか? それとも孫桓とは年が離れていて、すでに亡くなっていたのか?
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