【姓名】 歩氏(ほし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 臨淮郡(りんわいぐん)淮陰県(わいいんけん)
【生没】 ?~238年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権歩夫人伝(そんけんほふじんでん)』あり。
呉(ご)の孫権の側室、歩皇后(ほこうごう)
父母ともに不詳。歩騭(ほしつ)とは同族。
歩氏は、漢(かん)の末年に母とともに廬江(ろこう)へ移住し、孫策(そんさく)が廬江を攻略(195年ごろ)すると、今度は一家そろって長江(ちょうこう)を渡り、江南(こうなん)へ移った。
後に孫権に嫁いだが、その美貌により後宮第一の寵愛を受け、孫魯班(そんろはん)・孫魯育(そんろいく)というふたりの娘を生む。
歩氏は嫉妬せず、しばしば後宮のほかの女性たちの後ろ盾にもなったので、孫権から大切にされたという。
229年に孫権が呉の帝位に即くと、心中では歩氏を皇后に立てたいと考えた。
しかし、群臣は徐氏(じょし)を立てるよう求めたため、決着がつかないまま10年近く経ってしまう。
238年に亡くなると、孫権から皇后の位を追贈され、蔣陵(しょうりょう。孫権の陵)に葬られた。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。
本伝には生前の歩氏が、事実上の皇后として周囲から扱われていたことが書かれていました。ただ、孫登(そんとう)が主張したように、やはり彼を養育した徐氏を立てるのが筋か……。
結局、徐氏・歩氏とも存命の間に皇后に立てられませんでしたが、それだけ孫権の歩氏への思い入れが強かったということでしょう。
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