馬忠(ばちゅう)A ※あざなは「徳信(とくしん)」

【姓名】 馬忠(ばちゅう) 【あざな】 徳信(とくしん)

【原籍】 巴西郡(はせいぐん)閬中県(ろうちゅうけん)

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 第264話で初登場。
【演義】 第087回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・馬忠伝』あり。

南中(なんちゅう)の蛮民にも慕われた良将

父母ともに不詳。息子の馬脩(ばしゅう)は跡継ぎで、馬恢(ばかい)も同じく息子。

馬忠は若いころ母方の家で養育され、姓を「狐(こ)」、名を「篤(とく)」といった。のちにもとの姓に戻り、名も「忠」と改めた。

馬忠は郡吏となり、建安(けんあん)年間(196~220年)の末に孝廉(こうれん)に推挙され「漢昌県長(かんしょうけんのちょう)」に任ぜられた。

221年、劉備(りゅうび)が孫権(そんけん)討伐の東征を強行し、翌222年には猇亭(おうてい)で陸遜(りくそん)に大敗を喫する。

このとき巴西太守(はせいたいしゅ)の閻芝(えんし)は、諸県から5千の兵を徴発して不足を補おうとし、命を受けた馬忠が彼らを送り届けた。

すでに劉備は永安(えいあん)まで戻っていたが、馬忠を引見した後、尚書令(しょうしょれい)の劉巴(りゅうは)に向かいこう言った。

「こたびは黄権(こうけん)を失ってしまったが、代わりに狐篤(馬忠)を得た。まだまだ世に賢者が少なくないということだな」

223年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が丞相府を開くと、馬忠は「門下督(もんかとく)」に任ぜられる。

225年、諸葛亮が南征に乗り出すと、馬忠は「牂牁太守(そうかのたいしゅ)」に昇進。先の223年には郡丞(ぐんじょう)の朱褒(しゅほう)が反乱を起こし、この225年に平定されたが、馬忠はその後を受けてよく住民を慈しみ、大いに威厳と恩徳があった。

『三国志』(蜀書・後主伝〈こうしゅでん〉)には「牂牁太守の朱褒」とある。

230年、馬忠は召し還され「丞相参軍(じょうしょうさんぐん)」となり、長史(ちょうし)の蔣琬(しょうえん)の副官として諸葛亮の不在時の事務を取り仕切り、益州(えきしゅう)の「治中従事(ちちゅうじゅうじ)」を兼ねた。

翌231年、諸葛亮が軍勢をひきいて祁山(きざん)に進出すると、馬忠は彼のもとへ駆けつけ軍中の事務をあずかる。そして蜀軍の帰還後は将軍(しょうぐん)の張嶷(ちょうぎょく)らを指揮し、汶山郡(ぶんざんぐん)の羌族(きょうぞく)を討伐した。

233年、南夷(なんい)の有力者の劉冑(りゅうちゅう)が背いて諸郡を荒らし回ると、張翼(ちょうよく)に代わり馬忠が「ライ降都督(らいこうのととく。广+來)」となる。

馬忠は劉冑を斬り南方の平定に成功。この功によって「監軍(かんぐん)・奮威将軍(ふんいしょうぐん)」の官位を加えられ「博陽亭侯(はくようていこう)」に封ぜられた。

これ以前、益州太守の正昂(せいこう)が殺害され、後任の張裔(ちょうえい)も雍闓(ようかい)に捕らえられ、孫権のもとへ送られてしまったことがあった。

そのため、ライ降都督は危険を避け牂牁郡の平夷県(へいいけん)を治所としたが、馬忠のころには建寧郡(けんねいぐん)の味県(みけん)へ移り、蛮民に交じって暮らすようになる。

また、越嶲郡(えっすいぐん)でも長きにわたって土地を失ったままだったので、240年、馬忠は越嶲太守の張嶷とともにこれを取り戻した。この時の功により「安南将軍(あんなんしょうぐん)」の官位を加えられ「彭郷亭侯(ほうきょうていこう)」に移封?される。

ここは「『彭郷亭侯』に爵位が進んだ」とあったが、前出の「博陽亭侯」との兼ね合いがイマイチつかめず。一気に「彭郷侯」に爵位が進んだということかもしれない。

242年、馬忠は中央へ召し還され、次いで漢中(かんちゅう)に行き、大司馬(だいしば)の蔣琬に劉禅(りゅうぜん)の詔(みことのり)を伝え、自身は「鎮南大将軍(ちんなんだいしょうぐん)」の官位を加えられた。

244年、大将軍の費禕(ひい)が北進し魏軍(ぎぐん)を防いだ際、馬忠は成都(せいと)にとどまり尚書の職務をつかさどった。

費禕が帰還すると馬忠は南方へ帰任。249年に死去し息子の馬脩が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、馬忠は思いやりと度量を兼ね備え、冗談を言い大笑いすることはあっても、決して怒りの色を見せなかったということです。しかし、いざ事にあたると優れた決断を下し、威光と恩愛が並び立っていたので、蛮民から恐れられつつ敬愛されたのだとも。

さらに、馬忠の葬儀にはみなが集まって哀悼の涙を流し、彼のために建てられた廟(びょう)が陳寿(ちんじゅ。233~297年)の時代まで残っていたのだとか。

南中における活躍が多く派手さはないものの、馬忠のような良将があってこそ、蜀もそれなりの期間にわたり存続できたと言えるでしょう。

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