【姓名】 田豫(でんよ) 【あざな】 国譲(こくじょう)
【原籍】 漁陽郡(ぎょようぐん)雍奴県(ようどけん)
【生没】 ?~?年(82歳)
【吉川】 第304話で初登場。
【演義】 第103回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・田豫伝』あり。
曹氏(そうし)4代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉・曹芳〈そうほう〉)に仕えて異民族にも威名を轟(とどろ)かす
父母ともに不詳。息子の田彭祖(でんほうそ)は跡継ぎ。
田豫は年少のころ、公孫瓚(こうそんさん)のもとに逃げ込んでいた劉備(りゅうび)に身を託し、極めて高い評価を受けたという。
194年、劉備が豫州刺史(よしゅうしし)になると、田豫は母の老齢を理由に帰郷を願い出て許しを得る。別れに臨み、劉備は涙を流したという。
後に田豫は公孫瓚の下で東州県令(とうしゅうけんれい)?を代行する。
だが公孫瓚は、田豫が臨機応変の策に長じていることを理解しつつも、うまく使いこなせなかった。
199年、公孫瓚が袁紹(えんしょう)のために敗死すると、鮮于輔(せんうほ)が国人に推されて太守(たいしゅ)を代行した。田豫は鮮于輔と親しかったこともあり、長史(ちょうし)に取り立てられる。
当時、英雄や豪傑が次々と決起し、鮮于輔は誰に従えばよいのかわからなかった。
このとき田豫は曹操に付くことを勧め、鮮于輔も彼の意見を容れたおかげで封邑(ほうゆう)と恩寵を受ける。
田豫も曹操に召されて丞相軍謀掾(じょうしょうぐんぼうえん)となった。
★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。
田豫は潁陰県令(えいいんけんれい)や朗陵県令(ろうりょうけんれい)を経て弋陽太守(よくようたいしゅ)に昇進したが、いずれの任地でも治績を上げたという。
218年、鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)が代郡(だいぐん)を討伐した際、田豫は相(しょう)として従軍する。代郡を平定できたことについては田豫の献策が大いに貢献した。
田豫は南陽太守(なんようたいしゅ)に転任する。
以前(218年)、郡民の侯音(こうおん)が反乱を起こし、数千の仲間を山中に集め、盗みなどを働いて大きな被害を与えた。
前太守の東里袞(とうりこん)は500人を逮捕し、みな死刑に該当すると上奏していた。
しかし田豫は着任後、投獄されている囚人と会って諭したうえ、すべて釈放する。
囚人たちは互いに語り合い、一朝のうちに解散。郡は静けさを取り戻し、曹操からも評価されたという。
220年、曹丕が帝位に即いたころは北方の蛮族が強盛で、国境地帯に侵入しては騒ぎを起こしていた。
そこで田豫が持節(じせつ)・護烏丸校尉(ごうがんこうい)となり、牽招(けんしょう)や解儁(かいしゅん)とともに鮮卑族(せんぴぞく)を監督する。
高柳(こうりゅう)以東から濊貊(わいばく)以西の地域にいる鮮卑の数十部族、軻比能(かひのう)・弥加(びか)・素利(そり)は土地を分割して支配し、中国の市場に馬を出さないよう申し合わせていた。
田豫は対策として、蛮族を離間させようと図る。
そのうち素利が盟約を破り、魏に馬1千頭を差し出したため、軻比能に攻められ救援を求めてきた。
田豫は奇計を用いて撃退したうえ20余里にわたり追撃し、鮮卑側に多数の死者が出た。
また、烏丸王の骨進(こつしん)が凶暴かつ狡猾(こうかつ)で恭順しなかったため、田豫は国境を出て巡行した折、100余騎をひきいてその部落を訪ねる。
骨進は出迎えて拝伏したが、田豫は左右の者に命じて斬らせ、彼の罪を明らかにした後、部族の人々に命令した。みな恐れおののき、あえて動こうとはしなかったという。
こうして骨進の弟を代わりに立てると、これ以来、蛮人は肝をつぶし、田豫の威名が砂漠に轟きわたった。
山賊の高艾(こうがい)が数千の仲間を集め、幽州(ゆうしゅう)や冀州(きしゅう)を荒らし回ると、田豫は鮮卑族の素利に働きかけて高艾を斬らせ、首を都へ送り届ける。
この功により、田豫は長楽亭侯(ちょうらくていこう)に封ぜられた。
やがて幽州刺史の王雄(おうゆう)の一党が、王雄に烏丸校尉を兼ねさせたいと考え、田豫を非難する。
田豫は汝南太守(じょなんたいしゅ)に転任し、殄夷将軍(てんいしょうぐん)の官位を加えられた。烏丸校尉の在職期間は9年だった。
太和(たいわ)年間(227~233年)の末、遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)が魏に背く。曹叡は討伐を望んだものの、容易に適任者が見つからない。
中領軍(ちゅうりょうぐん)の楊曁(ようき)が田豫を推挙したところ、曹叡は田豫に本官のまま青州(せいしゅう)諸軍の監督を命じ、仮節(かせつ)として討伐に派遣した。
ちょうど呉(ご)が使者を遣って公孫淵と同盟を結んだが、田豫は、呉船が帰るころには風が強まり、結局は成山(せいざん)に向かうと予測。成山周辺の地勢を調べ、島々に至るまでの要害を押さえて待ち受けた。
呉船が帰途に就くと暴風に遭い、船は山にぶつかり沈没する。乗っていた人々は岸に流れ着いたが、隠れる場所もなく捕虜となった。
これ以前、田豫が汝南太守のまま青州の諸軍を監督することになったとき、青州刺史の程喜(ていき)は不満に思った。彼は軍事行動の際にも田豫の意見に反対することが多かった。
程喜は曹叡が立派な真珠を愛好していることを知り、密かに上言する。
「田豫は戦功を立てましたが、禁令は緩んでおります。彼の鹵獲(ろかく)した武器・真珠・金などは甚だ多かったのに、これらを放出してしまい、官に納めませんでした」
このため、今回は田豫の功績が採り上げられなかったという。
234年、孫権(そんけん)自ら10万と号する軍勢をもって魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を攻めたとき、征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)は諸軍をひきいて救援するつもりだった。
このとき田豫は、呉軍に城を攻めさせておき、その鋭気をくじくべきで、大軍をもって敵と争わないほうがよいと進言する。
田豫の意見が上言されると曹叡もこれを容れ、そのうち孫権も遁走(とんそう)した。
景初(けいしょ)年間(237~239年)の末、田豫は300戸の加増を受け、以前と合わせて封邑は500戸となる。
曹芳の正始(せいし)年間(240~249年)の初め、田豫は使持節(しじせつ)・護匈奴中郎将(ごきょうどちゅうろうしょう)に昇進する。
さらに振威将軍(しんいしょうぐん)の官位を加えられ、幷州刺史(へいしゅうしし)を兼ねた。
外部の蛮族は田豫の威名を伝え聞いていたため、連れ立って来貢したという。州境は安定し民も懐いた。
後に田豫は召し還されて衛尉(えいい)となる。
たびたび彼は辞任を請うたが、太傅(たいふ。239~251年)の司馬懿(しばい)は文書で諭し、曹芳の聴許を得るには至らなかった。
それでもあくまで彼が重病と称したため、太中大夫(たいちゅうたいふ)に任ぜられ、卿(けい)の俸禄を食(は)むことになった。
その後、田豫は82歳で死去(時期は不明)し、息子の田彭祖が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、田豫は清潔でつつましいうえに質素で、賞賜をすべて将兵に分け与えたそうです。
蛮民からの個人的な贈り物も帳簿につけて官に納めたので、いつも家族は窮乏していたのだとか。そのため異民族でさえ、田豫の節義を高く評価していたとも。
そして254年、詔(みことのり)によって褒賞され、田豫の遺族に銭と穀物が下賜されたとのことでした。
『三国志』(魏書・徐邈伝〈じょばくでん〉)によると、このとき徐邈・胡質(こしつ)・田豫の家に、それぞれ穀物2千斛(ごく)と銭30万が下賜されています。
田豫の没年はイマイチはっきりしませんが、「太傅の司馬懿」という記述や下賜の記事から、おおよその予測はつきますね。
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