牽招(けんしょう) ※あざなは子経(しけい)

【姓名】 牽招(けんしょう) 【あざな】 子経(しけい)

【原籍】 安平郡(あんぺいぐん)観津県(かんしんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・田豫伝(でんよでん)』に付された「牽招伝」あり。

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長く辺境で活躍した異民族対策の専門家

父母ともに不詳。息子の牽嘉(けんか)は跡継ぎで、牽弘(けんこう)も同じく息子。

牽招は10余歳の時、同県の楽隠(がくいん)に師事する。

後に楽隠は車騎将軍(しゃきしょうぐん。187~189年)の何苗(かびょう)の長史(ちょうし)となったが、牽招も師に随行して学業を終えた。

189年、洛陽(らくよう)の動乱で何苗と楽隠が殺害されると、牽招は同門の史路(しろ)らと協力し、白刃を冒して楽隠の遺体を収容する。

牽招は恩師の遺体を守って帰郷しようとしたが、道中で略奪に遭い、史路らは逃げ散ってしまう。

賊が柩(ひつぎ)を開けようとしたので、牽招は涙ながらに見逃してほしいと頼む。

すると賊は義気に感心し、そのまま立ち去る。この一件で牽招は有名になった。

やがて牽招は冀州牧(きしゅうぼく)の袁紹(えんしょう)に招かれ督軍従事(とくぐんじゅうじ)となり、烏丸突騎(うがんとっき)を兼ねる。

袁紹の舎人が禁令を犯した際、牽招は先に斬ってから報告した。だが、袁紹は彼の処置を高く評価し、罪に問わなかったという。

202年、袁紹が死去すると、牽招は息子の袁尚(えんしょう)に仕える。

204年、鄴(ぎょう)が曹操(そうそう)に包囲されると、牽招は袁尚の命を受けて上党(じょうとう)へ行き、兵糧の調達にあたった。

ところが、牽招が戻る前に袁尚は敗れ、中山(ちゅうざん)へ逃走した。

牽招は幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹(こうかん)を訪ね、袁尚と力を合わせて情勢の変化を見るよう勧める。

高幹は袁紹の甥で、袁尚の外兄(いとこ。父の姉妹の息子、または母の兄弟の息子)にあたる。

しかし、高幹が密かに牽招を殺害しようとしたため、間道づたいに逃げた。

それでも、道がふさがれていて袁尚を追うことはできず、牽招は東に転じて曹操のもとへ行く。

曹操は冀州刺史を兼ねると、牽招を召して従事とした。

曹操は(袁尚の兄の)袁譚(えんたん)討伐を考えたが、柳城(りゅうじょう)の烏丸族が騎兵を出して袁譚を助けようとした。

牽招は烏丸突騎を務めたことがあったので、曹操の命を受けて柳城へ赴く。

牽招が柳城に着くと、「峭王(しょうおう)」を号する烏丸の大人(たいじん。部族の有力者)の蘇僕延(そぼくえん)が警戒態勢を敷いており、袁譚のもとに5千騎を送ろうとしているところだった。

また、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)が平州牧(へいしゅうぼく)を自称する。

公孫康は配下の韓忠(かんちゅう)を遣わし、蘇僕延に単于(ぜんう。王)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を与えようとしていた。

蘇僕延は部族長を集めて協議したが、牽招と韓忠も同席する。

この場で牽招が韓忠を論破してみせると、蘇僕延は曹操の命を受け入れ、警戒態勢にあった5千騎を解散させた。

翌205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚を討ち果たすと、牽招は軍謀掾(ぐんぼうえん)となる。

207年、牽招は曹操の烏丸討伐に従軍し、柳城に着いたところで護烏丸校尉(ごうがんこうい)に任ぜられた。

曹操が鄴に帰ると、公孫康から(遼東に逃げ込んでいた)袁熙(えんき)と袁尚の首が届けられ、馬市に掛けられた。

牽招は悲しい気持ちになり、旧主の首の下で祭祀(さいし)を設ける。

だが曹操はとがめず、かえって義気ある行為と評価し、牽招を茂才(もさい)に推挙した。

215年、牽招は曹操の漢中(かんちゅう)討伐に付き従ったが、帰還時に留め置かれて中護軍(ちゅうごぐん)となる。

やがて牽招も鄴へ帰還し平虜校尉(へいりょこうい)に任ぜられ、督青徐諸軍事(とくせいじょしょぐんじ)を務めた。

そして東萊(とうらい)の賊を攻め破り、東方地域の平穏を取り戻す。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、牽招は使持節(しじせつ)・護鮮卑校尉(ごせんぴこうい)として昌平(しょうへい)に駐屯した。

このころ辺境の民は山沢に流亡したり、魏に背いて鮮卑へ逃亡したりし、こうした者たちの居住地が4ケタの数に上っていた。

牽招は広く恩愛と信義を施し、帰順者を招き入れる。

建義中郎将(けんぎちゅうろうしょう)の公孫集(こうそんしゅう)らが配下を引き連れて帰順したので、牽招は本郡に戻す。

さらに、鮮卑族の素利(そり)や弥加(びか)らの10余万人からなる諸部落を懐柔した結果、みな砦(とりで)の門を叩いて帰服した。

後に呉(ご)の討伐計画が持ち上がった際、牽招は召し還されたものの、その遠征が取りやめになる。

そこで牽招は右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)に任ぜられ、地方へ出て雁門太守(がんもんたいしゅ)となった。

雁門郡は国境地帯にあり、備えをしても略奪の被害が絶えない。

牽招は民に闘い方を教え、上奏して烏丸族の500余家の租税を免除してもらい、彼らを遠方まで偵察に行かせる。

賊が国境を侵すたび、牽招は兵をひきいて撃破した。そのうち官民の胆力も日を追って研ぎ澄まされ、荒野を行くときも心配がなくなった。

また、牽招が鮮卑の大人たちの離間を図ったところ、歩度根(ほどこん)や泄帰泥(せつきでい。泄帰尼〈せつきじ〉とも)らが軻比能(かひのう)と仲たがいを起こす。彼らは3万余家を引き連れて郡に出頭し、国境地帯に従属した。

牽招が従属した者たちに軻比能を攻めさせると、軻比能の弟の苴羅侯(しょらこう)に加え、魏に背いた烏丸の帰義侯(きぎこう)の王同(おうどう)や王寄(おうき)らも殺害したため、互いに仇敵(きゅうてき)となる。

ここで牽招も泄帰泥らをひきいて出撃し、もとの雲中郡(うんちゅうぐん)の地で軻比能を大破した。

その後、牽招は河西(かせい)にいる鮮卑族の附頭(ふとう)ら10余万家と誼(よしみ)を通じ、陘北(けいほく)にあった、もとの上館城(じょうかんじょう)を修繕して守備兵を置き、内外の抑えとした。

蛮民は牽招に心を寄せ、反逆した逃亡者は親戚でもかくまわず、みな逮捕し送り届けてくる。これにより盗賊も息を潜めることになった。

牽招は才識のある者を選んで太学(たいがく)で学ばせ、彼らが帰国すると互いに教え合わせた。数年の間に学業は大いに盛んになったという。

雁門の郡治の広武県(こうぶけん)は井戸水が塩辛く、民は遠くまで流水をくみに行った。

そこで牽招が地勢を考え、山の水源から城内まで水を引き入れたため民は恩恵を受けた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、牽招は関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

228年、護烏丸校尉の田豫が国境を出て、もとの馬邑城(ばゆうじょう)で軻比能に包囲された。

牽招は救援要請を受けると通常の規定に反し、自ら上奏文を奉り即座に出発する。そして、もとの平州の砦の北で軻比能の軍勢を大破した。

牽招は蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)の侵攻に対し、蜀は軻比能と誼を通じているので防備を整えるよう上奏した。

だが魏の論者は、両者が遠く離れていることから信じなかった。

このころ諸葛亮は祁山(きざん)に駐屯しており、牽招の読み通り使者を遣って軻比能と結んでいた。

231年、軻比能はもとの北地郡(ほくちぐん)の石城(せきじょう)へ侵出し、諸葛亮に呼応する。

曹叡の詔(みことのり)を受けて牽招が討伐に向かったものの、すでに軻比能は砂漠の南へ引き揚げていた。

牽招は幷州刺史の畢軌(ひっき)に相談して言った。

「蛮族は移動するため常居を持たないが、彼らを遠方まで追撃しても追いつけない。奇襲しようにも山や谷があるうえ、物資や兵糧を密かに運ぶことも難しい」

「ここは、新興(しんこう)と雁門の守備にあたるふたりの牙門将軍(がもんしょうぐん)に命じ、国境を出て陘北に駐屯させたらどうだろうか?」

「外に向けては鎮撫(ちんぶ)の効果があり、内で兵に田作させれば兵糧を蓄えることもできる。秋から冬に入って馬が肥えたとき、州郡が力を合わせて敵の隙を突くのがよいと思う」

しかし、このことが実施されないうちに牽招は病死(時期は不明)し、息子の牽嘉が跡を継いだ。

牽招の雁門における在任期間は12年に及び、その威風は遠くまで轟(とどろ)いた。彼の辺境統治の評判は田豫に次ぎ、民から追慕されたという。

管理人「かぶらがわ」より

若いころから学問に励んでいたためか、牽招の軍略や政策には理論的なものが感じられます。

ただ、いくら長城(ちょうじょう)があったにせよ、魏の国境は果てしなく長い。いきなり馬に乗ってやってきて、追いかけるとどこまでも逃げていく――。

牽招も異民族の対策に手を焼いたであろうことは容易に想像がつきますね。

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