郭淮(かくわい) ※あざなは伯済(はくせい)、魏(ぎ)の陽曲貞侯(ようきょくていこう)

【姓名】 郭淮(かくわい) 【あざな】 伯済(はくせい)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)陽曲県(ようきょくけん)

【生没】 ?~255年(?歳)

【吉川】 第218話で初登場。
【演義】 第070回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・郭淮伝』あり。

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的確な判断で雍涼(ようりょう)を鎮守し、蜀軍(しょくぐん)の侵攻も食い止める、陽曲貞侯(ようきょくていこう)

父は郭縕(かくうん)だが、母は不詳。郭全(かくぜん)は祖父。郭配(かくはい)と郭鎮(かくちん)は弟。妻は王淩(おうりょう)の妹だった。

息子の郭統(かくとう)は跡継ぎで、このほかにも4人の息子がいたという。

郭淮は建安(けんあん)年間(196~220年)に孝廉(こうれん)に推挙され、平原府丞(へいげんふじょう)に任ぜられた。

211年、曹丕(そうひ)が五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)になると、召されて門下賊曹(もんかぞくそう)を務める。

後に郭淮は、曹操(そうそう)配下の丞相兵曹議令史(じょうしょうへいそうぎれいし)に転じた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

215年、郭淮は曹操の漢中(かんちゅう)討伐に付き従う。

帰還時に征西将軍(せいせいしょうぐん)の夏侯淵(かこうえん)が留め置かれて劉備(りゅうび)を防ぐことになったが、郭淮はその司馬(しば)を務めた。

219年、夏侯淵が劉備と戦った際、ちょうど郭淮は病のために出陣できなかった。

そして、夏侯淵が陽平(ようへい)で戦死すると軍中は混乱した。郭淮は盪寇将軍(とうこうしょうぐん)の張郃(ちょうこう)を軍主に推し立て、諸軍営を落ち着かせる。

翌日、劉備が漢水(かんすい)を渡って攻め寄せる動きを見せると、みな水に沿って陣営を築くことで防ごうと考えた。

ここで郭淮は、あえて水から離れた場所に陣営を築き、敵を引きつけたうえ、彼らが半ば渡ったところで攻撃するのがよいと述べる。

郭淮の意見に従って陣営を築いたところ、劉備は漢水を渡ろうとしなかった。

郭淮は陣営を固守して引く気がないことを示した後、曹操に実情を報告する。

曹操は一連の対応を嘉(よみ)し、張郃に節(せつ。権限を示すしるし)を与え、再び郭淮を司馬とした。

220年2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、郭淮は関内侯(かんだいこう)に封ぜられ、鎮西長史(ちんぜいちょうし)に転ずる。

また郭淮は征羌護軍(せいきょうごぐん)を兼ね、左将軍(さしょうぐん)の張郃と冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)の楊秋(ようしゅう)を監督した。

山賊の鄭甘(ていかん)や盧水(ろすい)を討伐したことで初めて関中(かんちゅう)の平定が成ると、民は安心して生業に就いた。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、郭淮は即位を奉賀する使者として都へ向かうが、道中で病にかかり動けなくなった。

郭淮が遅れて到着すると、すでに祝宴が始まっていたため曹丕から厳しい責めを受ける。

だが郭淮は、曹丕の治世を唐虞(とうぐ。堯〈ぎょう〉と舜〈しゅん〉)のそれになぞらえ、かえって評価された。

そのため雍州刺史(ようしゅうしし)の代行に抜てきされ、射陽亭侯(しゃようていこう)に封ぜられる。さらに5年後には正式な雍州刺史となった。

安定(あんてい)の羌族の大帥(たいすい。頭目)である辟蹏(へきてい)が反乱を起こすと、郭淮は討伐にあたって降伏させた。

228年、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)に進み、将軍の馬謖(ばしょく)を街亭(がいてい)に、同じく高詳(こうしょう)を列柳城(れつりゅうじょう)に送り込む。

これに対して郭淮が高詳を、張郃が馬謖を、それぞれ撃破した。

高詳については、高翔や高祥と同一人物とも言われている。

さらに郭淮は、隴西(ろうせい)の羌族である唐蹏(とうてい)を枹罕(ふかん)で討ち破り、建威将軍(けんいしょうぐん)の官位を加えられた。

231年、蜀軍が鹵城(ろじょう)に侵出する。このとき隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)には穀物がなく、関中から大規模な輸送を行うことが論議された。

しかし、郭淮が威光と恩愛をもって羌族を帰順させたため、家ごとに穀物を出してもらうことができた。これらの運搬に関わる労役を公平に割り当てたこともあり、魏軍の兵糧は充足したという。

後に郭淮は揚武将軍(ようぶしょうぐん)に転ずる。

234年2月、蜀の諸葛亮が斜谷(やこく)へ進み、蘭坑(らんこう)で田作を行う。

魏は司馬懿(しばい)を渭南(いなん)に駐屯させていたが、郭淮は諸葛亮の狙いが北原(ほくげん)にあると考え、先にその地を占めるよう主張した。

論者の多くは賛成しなかったが、司馬懿は郭淮の意見を容れ、北原での駐屯を命ずる。

同年4月、北原の塹壕(ざんごう)や塁壁が完成しないうちに蜀の大軍が来襲したものの、郭淮はこれを撃退した。

数日後、諸葛亮が兵力を誇示しながら西方へ移動し、魏の諸将は西囲(せいい。陣営の名?)を攻めるつもりだと考える。

だが郭淮だけは、わが軍を西方に引きつけておき、陽遂(ようすい)を攻めるに違いないと主張する。

その夜、蜀軍は郭淮の読み通り陽遂を攻めたが、備えがあったので近づけなかった。

240年、蜀の姜維(きょうい)が隴西に侵出する。郭淮は彊中(きょうちゅう)まで追撃して退却に追いやった。

そのまま郭淮は羌族の迷当(めいとう)らを討伐し、従順な氐族(ていぞく)の部落3千余を鎮撫(ちんぶ)。彼らを強制的に移住させ、関中の充実を図った。

郭淮は左将軍に昇進する。

涼州の休屠胡(きゅうとこ)の梁元碧(りょうげんへき)らが2千余家をひきいて雍州に帰順してくると、郭淮は上奏し、彼らを安定郡の高平(こうへい)に住まわせ、民の砦(とりで)とするよう求める。

その後、帰順者のために西州都尉(せいしゅうとい)が置かれた。

郭淮は前将軍(ぜんしょうぐん)に昇進したが、これまで通り雍州を宰領する。

244年、曹爽(そうそう)や夏侯玄(かこうげん)らが蜀討伐に向かった際、郭淮は諸軍を指揮して先鋒を務める。

このとき郭淮は形勢不利と判断し、速やかに軍を離脱させたため大敗を免れ、帰還後に節を賜った。

247年、隴西・南安(なんあん)・金城(きんじょう)・西平(せいへい)の羌族である、餓何(がか)・焼戈(しょうか)・伐同(ばつどう)・蛾遮塞(がしゃさい)らが反乱を起こす。

彼らは結託して城邑(まち)を攻囲し、さらに南方から蜀軍を招く。涼州の蛮族の治無戴(ちぶたい)も呼応して背いた。

これに対し魏は、討蜀護軍(とうしょくごぐん)の夏侯霸(かこうは)を為翅(いし)に駐屯させる。

郭淮の軍が狄道(てきどう)に着いたとき、論者はみな先に枹罕を平定すべきだと主張した。

ところが郭淮は、姜維が夏侯霸を急襲すると考え、渢中(ふうちゅう)から南へ転進して夏侯霸と合流。姜維は為翅を攻めたものの、ちょうど郭淮軍が到着したため逃走。

魏軍は反乱を起こした羌族を討伐し、餓何と焼戈を斬り、降伏した部落も1万余に上る。

翌248年、蛾遮塞らは河関(かかん)や白土(はくど)の古城に拠り、河を頼りに抵抗した。

郭淮は上流で動いているように見せかけ、密かに下流から兵を渡して白土城を攻め取った。

別に治無戴が武威(ぶい)を包囲したが、彼の家族は西海(せいかい)に留まっていた。

そこで郭淮は西海に軍を進め、治無戴の妻子を捕らえにかかる。

ちょうど治無戴が敗れて帰ったので、郭淮は龍夷(りょうい)の北で戦い、これを撃破した。

令居(れいきょ)の蛮人が石頭山(せきとうざん)の西におり、街道まで出ては魏使の往来を妨害した。郭淮は立ち寄って討伐し、これも大破した。

次いで蜀の姜維が石営(せきえい)に侵出。彊川(きょうせん)を経て西進し、治無戴と合流する。

さらに陰平太守(いんぺいたいしゅ)の廖化(りょうか)を成重山(せいちょうざん)に留めて城を築かせ、羌族の人質を収容した。

郭淮は軍を分けて廖化を攻めようとしたが、諸将は賛成しない。それでも彼は夏侯霸らに沓中(とうちゅう)の姜維を追わせる一方、自身は諸軍をひきいて廖化を攻めた。

すると姜維は廖化の救援に駆けつけ、郭淮の考えた通りになった。郭淮は都郷侯(ときょうこう)に爵位が進む。

翌249年、郭淮は征西将軍・都督雍涼諸軍事(ととくようりょうしょぐんじ)に昇進。

この年、郭淮は雍州刺史の陳泰(ちんたい)と策を練り、蜀の牙門将(がもんしょう)の句安(こうあん)らを翅の近くで降す。

翌250年、曹芳(そうほう)の詔(みことのり)により郭淮の多年の功績が評価され、車騎将軍(しゃきしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)に昇進。持節(じせつ)と都督はもとの通りとされる。

爵位も陽曲侯に進み、封邑(ほうゆう)は2,780戸となった。うち300戸を分ける形で、息子ひとりが亭侯に封ぜられた。

255年、郭淮が死去すると大将軍(だいしょうぐん)の官位を追贈され、貞侯と諡(おくりな)される。息子の郭統が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

215年の漢中の張魯(ちょうろ)討伐以降、長く魏の西部地域で活躍した郭淮。目立った失策もなく、蜀の前に立ちはだかった名将のひとりでした。

曹丕の祝宴に遅れて不興を買いましたが、これまた見事な機転で切り抜けました。こういう才能がないと、昇進を続けるのは難しいですね。

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