関羽(かんう) ※あざなは雲長(うんちょう)

【姓名】 関羽(かんう) 【あざな】 雲長(うんちょう)

【原籍】 河東郡(かとうぐん)解県(かいけん)

【生没】 ?~219年(?歳)

【吉川】 第006話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・関羽伝』あり。

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生涯にわたり劉備(りゅうび)を支え続けた名将、現代でも神として祭られる、諡号(しごう)は壮繆侯(そうぼくこう)

父母ともに不詳。関平(かんぺい)と関興(かんこう)という息子がおり、跡を継いだのは関興。そのほかに娘もいたことがうかがえる。

関羽は、もとのあざなを長生(ちょうせい)といい、河東から涿郡(たくぐん)へ亡命した。

184年、劉備が故郷(涿郡)で仲間(黄巾賊〈こうきんぞく〉の討伐に加わるための義兵)を集めた際、張飛(ちょうひ)とともに呼びかけに応じ、劉備の護衛を務めるようになる。

後に劉備が平原国相(へいげんこくしょう)になると、張飛ともども別部司馬(べつぶしば)に任ぜられ、それぞれ部隊を指揮した。劉備とは同じ寝台に休むほどで、兄弟のような恩愛をかけられたという。

それでも大勢が集まる席では、関羽は一日中そばに立って警護にあたるなど、劉備に付き従って奔走し、苦労をいとわなかった。

199年、劉備が曹操(そうそう)配下の徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害すると、関羽は下邳(かひ)の守備を任され、太守(たいしゅ)の職務を代行した。

翌200年、劉備が曹操の攻撃を受けて敗れ、袁紹(えんしょう)のもとへ逃走。残された関羽は下邳で曹操に降伏したが、偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられて大いに礼遇された。

この年、袁紹配下の顔良(がんりょう)が、白馬(はくば。地名)にいた曹操配下の東郡太守(とうぐんたいしゅ)の劉延(りゅうえん)を攻撃する。

このとき関羽は曹操の命を受け、張遼(ちょうりょう)とともに先鋒を務めたが、敵の大軍の中に顔良を見つけると、一目散に迫って見事に討ち取った。

袁紹軍の諸将で関羽の相手になれる者はおらず、彼の活躍で白馬の包囲が解けた。そのため曹操の上表により、漢寿亭侯(かんじゅていこう)に封ぜられる。

さらに重い恩賞を賜ったものの、関羽はそれらに封印を施したうえ、曹操に別れを告げる手紙を残すと、袁紹のところにいた劉備のもとへ戻っていく。

曹操は、追撃すべきだと主張する側近たちを制し、追ってはならないと命じたという。

翌201年、関羽は劉備に付き従い、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼る。

208年、曹操が荊州の攻略に乗り出し、まもなく劉表が死去すると、劉備は樊(はん)から南下して長江(ちょうこう)を渡ろうと考えた。このとき関羽は別に数百隻の船をひきいて、江陵(こうりょう)で合流するよう命を受ける。

ほどなく劉備は曹操の追撃を受け、当陽(とうよう)の長阪(ちょうはん)で敗れたものの、脇道から漢津(かんしん)へ抜けて関羽の船団と出会い、無事に夏口(かこう)まで逃れた。

ここで孫権(そんけん)が軍勢を繰り出して防ぎ、曹操を撤退へと追い込む(赤壁〈せきへき〉の戦い)。

劉備は江南(こうなん)の諸郡を手にすることができ、大功のあった配下の者たちに官職を授けた。関羽は襄陽太守(じょうようたいしゅ)・盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に任ぜられ、長江の北に駐屯することになった。

214年、劉備が益州(えきしゅう)を平定すると、関羽は督荊州事(とくけいしゅうじ)に任ぜられる。

219年7月、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、関羽は前将軍(ぜんしょうぐん)に任ぜられて節鉞(せつえつ。軍権を示す旗とまさかり)を貸し与えられた。

同年8月、関羽は軍勢をひきい、樊にいる曹操配下の曹仁(そうじん)を攻撃。これを受けて曹操は、于禁(うきん)らを救援に差し向ける。

ところがこの年の秋、ひどい大雨で漢水(かんすい)が氾濫し、于禁の指揮下にあった七軍は水没。関羽は于禁を降したうえ、敵将の龐悳(ほうとく)を斬った。

梁郟(りょうこう)や陸渾(りくこん)といった群盗の中には、以前より関羽から称号や印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を受けて支党となる者がおり、彼の威信は中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)を震動させる。

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)では、梁郟は梁県および郟県。陸渾も県名として解釈されており、そちらのほうがしっくりくる。わかりにくかったということを残しておくため、両者を人名だと解釈していた当初の流れで載せておく。

さすがの曹操も、許(きょ)を遷都して関羽の鋭鋒を避けようかと、司馬懿(しばい)や蔣済(しょうせい)に諮ったほどだった。

するとふたりは、きっと孫権は関羽が志を得ることを望まないだろうから、使者を遣って背後を突くよう勧め、江南の地を割き、領有を認めてやるのがよい。そうすれば、おのずから樊城の包囲は解けると言い、曹操もこの意見を容れた。

このころ劉備配下の南郡太守(なんぐんたいしゅ)の麋芳(びほう)が江陵に、将軍の傅士仁(ふじじん)が公安(こうあん)に、それぞれ駐屯していたが、ふたりともかねて関羽が自分たちを軽んじていると見て嫌っていた。

このため関羽の出撃後も軍資を供給するだけで、全力を挙げて支援しようとしなかった。

そのことを関羽が非難したと聞くと、麋芳も傅士仁も恐怖で落ち着きを失う。そこへ孫権が密かに誘いかけ、人を遣ってふたりを迎えさせる。

曹操配下の徐晃(じょこう)が援軍として駆けつけると、関羽は敗れた。すでに江陵は孫権軍に占領されており、関羽の配下や妻子も捕らえられていたため、関羽軍は四散した。

ほどなく孫権配下の潘璋(はんしょう)に退路を断たれると、関羽は息子の関平ともども臨沮(りんしょ)で斬殺された。

孫権は、関羽の首を曹操のもとへ送り、曹操は諸侯の礼をもって遺骸を葬ったという。

関羽は壮繆侯と諡(おくりな)され、息子の関興が跡を継いだ。

関羽をはじめ、張飛・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)・黄忠(こうちゅう)に諡号が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)3(260)年になってからのこと。

管理人「かぶらがわ」より

関羽は現代まで神として祭られるほどで、その求心力は、時代を超えてなお大変なものがあります。ですが、史実の彼には人間味を感じさせるエピソードも多いと思います。

例えば、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀記(しょくき)』には、以下のような話がありました。

(198年に)曹操が劉備とともに下邳の呂布(りょふ)を包囲したときのこと、呂布配下の秦宜禄(しんぎろく)は、命を受けて袁術(えんじゅつ)のところへ救援を求めに行きます。

このとき秦宜禄の妻(杜氏〈とし〉)は下邳に残っていたのですが、関羽は(下邳の落城後に)彼女を娶(めと)りたいと願い出て、曹操の許しを得ました。そして(同年12月の)呂布の処刑後、関羽は再び彼女を娶りたいと上言します。

すると曹操は、きっと美人なのだろうと思い、先に使いを遣って彼女を迎え、そのまま手元に置いてしまったのだとか。

この件について裴松之は、「これは(孫盛〈そんせい〉の)『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』の説くところと同じである」と重ねて言及していました。

「こういう話を採ってしまうと関羽のイメージが……」という見方もあるでしょうが、個人的には彼の評価を落とすものではないと感じます。

また、本伝にはこういう話もありました。

(214年に)馬超が劉備の陣営に加わると、これを聞いた関羽が諸葛亮(しょかつりょう)に手紙を送って尋ねます。

「馬超の人物や才能は誰と比べられるものだろうか?」

諸葛亮は関羽の負けず嫌いな性格を知っていたので、このような返書を送ります。

「孟起(もうき。馬超のあざな)は文武の資質を兼ね備えており、武勇は人並み優れ、一世の傑物である。(前漢〈ぜんかん〉の)黥布(げいふ)や彭越(ほうえつ)の徒だと言えよう」

「まさに益徳(えきとく。張飛のあざな)と先を争うべき者だが、なお髯(ひげ)どの(関羽)の絶倫ぶりには及ぶまい」

関羽は返書を見て大喜びし、賓客にも見せるほどだったという。こうした一面を見せる関羽も悪くないですね。

ほかにも本伝には、関羽に関する話がいろいろ載せられており、『三国志演義』の成立に大きな役割を果たしたことがうかがえました。

流れ矢が左肘を貫通したとか、孫権から息子の嫁として娘を迎えたいと申し入れがあったものの、その使者をどなりつけて拒否したとか、『三国志演義』や吉川『三国志』のファンなら、「おぉ、あの話か」と思い出すようなネタが満載です。

確かに関羽は凜(りん)とした人だったのでしょうが、神のごとく近寄りがたい、完全無欠の超人という感じではなかったのではないか、との印象を持ちました。

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