馬騰(ばとう) ※あざなは寿成(じゅせい)

【姓名】 馬騰(ばとう) 【あざな】 寿成(じゅせい)

【原籍】 扶風郡(ふふうぐん)茂陵県(ぼうりょうけん)

【生没】 ?~212年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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韓遂(かんすい)と組んで涼州(りょうしゅう)に勢力を張るも、一族皆殺しの最期

父は馬子碩(ばしせき。名はわからず)だが、母は不詳。羌族(きょうぞく)の女性だったという。馬超(ばちょう)・馬休(ばきゅう)・馬鉄(ばてつ)という3人の息子がいた。

馬騰の先祖は、後漢(ごかん)の伏波将軍(ふくはしょうぐん)の馬援(ばえん。前14~後49年)だという。

父の馬子碩は天水郡(てんすいぐん)の蘭干県尉(らんかんけんい)を務めたが、後に官位を失う。そのまま隴西(ろうせい)に留まり、羌族に混ざって暮らした。

家が貧しく、妻もいなかったので、馬子碩は羌族の娘を娶(めと)る。やがて生まれたのが馬騰だった。

馬騰は若いころ貧乏だったので、いつも彰山(しょうざん)に入って材木を切り出した。そしてこれを背負い、市場まで売りに行くことで生計を立てていた。

馬騰は身長が8尺(せき)以上もあり、体格だけでなく、顔や鼻も立派だった。そのうえ賢くて信義にも厚かったため、多くの人々から敬愛されたという。

霊帝(れいてい。在位168~189年)の末期、涼州刺史(りょうしゅうしし)の耿鄙(こうひ)が不正な官吏を信任すると、平民の王国(おうこく)に加え、氐族(ていぞく)や羌族も反乱を起こした。

州郡では、平民の中から武勇のある者を募って討伐しようとしたが、このときの応募者に馬騰がいた。馬騰は軍の従事(じゅうじ)に任ぜられ、部隊を指揮する。反乱軍の討伐で手柄を立て、軍の司馬(しば)に昇進した。

187年、反乱軍内で仲間割れが起こり、韓遂が辺章(へんしょう)や北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)らを殺害し、隴西を包囲。

同年4月、涼州刺史の耿鄙が、韓遂らの討伐にあたったものの大敗。

同年4月、韓遂が漢陽郡(かんようぐん)に侵攻し、漢陽太守(かんようたいしゅ)の傅燮(ふしょう)が戦死。

同年4月、馬騰が韓遂と合流。王国を首領に推し立てて三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)へ侵攻。

192年、韓遂とともに朝廷に降伏し、軍勢をひきいて長安へ赴く。馬騰は征西将軍(せいせいしょうぐん)に任ぜられて、郿(び)に駐屯することになり、韓遂は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任ぜられて、金城(きんじょう)へ帰ることになった。

194年3月、韓遂とともに、長平観(ちょうへいかん)で郭汜(かくし)や樊稠(はんちゅう)らと戦ったものの大敗し、涼州へ逃走する。

涼州へ戻った馬騰と韓遂は、初めこそ極めて親しくして義兄弟の契りを結ぶほどだったが、後に一転し、互いに争い合う仇敵(きゅうてき)となった。

馬騰に攻められた韓遂は敗走したが、軍勢を集めて立ち戻り、反撃して馬騰の妻子を殺害。このため、いつまでも戦闘が続くことになってしまう。

197年、司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)と涼州牧(りょうしゅうぼく)の韋端(いたん)の説得を受け、韓遂と和解。

馬騰は召し還されて槐里(かいり)に駐屯することになり、前将軍(ぜんしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられたうえ、槐里侯に封ぜられた。

その後、馬騰は、北方は胡(こ。異民族)の侵入に備え、東方は白(はく。鮮卑族〈せんぴぞく〉)の騎兵に備えた。また、士人を厚遇して賢者を引き立て、民の救済にも努めたので、三輔は甚だ安定。人々の敬愛を集めたという。

208年、朝廷から衛尉(えいい)として召し出される。再び韓遂との仲が険悪になっていた馬騰は、自らの老いも顧み、召しに応じて入朝することにした。

馬騰が入朝すると、長男の馬超が偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられ、馬騰配下の軍勢を統率することになった。馬超の弟の馬休は奉車都尉(ほうしゃとい)に、その弟の馬鉄は騎都尉(きとい)に、それぞれ任ぜられ、馬騰一族は鄴(ぎょう)に移住した。

211年3月、曹操(そうそう)が鍾繇に張魯(ちょうろ)の討伐を命ずる。加えて夏侯淵(かこうえん)らにも、河東(かとう)に出て鍾繇と合流するよう命じた。

この動きに対して、関中(かんちゅう)にいた馬超が疑心を抱く。馬超は韓遂と協力し、楊秋(ようしゅう)・李堪(りかん)・成宜(せいぎ)らとともに反乱を起こした。

同年9月、馬超らは渭南(いなん)で曹操軍に大破され、涼州へ逃走。

翌212年5月、馬騰は、息子の馬休や馬鉄らとともに曹操に誅殺され、一族も皆殺しにされた。

管理人「かぶらがわ」より

正史『三国志』および范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には馬騰の伝が立てられていませんが、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・馬超伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』に、彼の事績がいくらかまとめて載せられていました。

吉川『三国志』や『三国志演義』での馬騰は、反董卓(とうたく)連合軍に参加していたり、董承(とうしょう)が献帝(けんてい)から賜った、衣帯の密詔による曹操誅殺計画に絡んだりしていますが――。両方とも史実ではありません。

これらのイベントに参加していないという認識だと、馬騰のイメージがだいぶ変わってくると思います。

息子の馬超が魅せる男であるうえ、最終的には蜀の劉備(りゅうび)に仕えて活躍したので、その父の馬騰も持ち上げ的な味付けになったのでしょうか?

史実では、そこまで漢室(かんしつ)に忠義を尽くしてはいない馬騰ですが、濃い感じの豪快な人物像が浮かんできます。

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