潘濬(はんしゅん)

【姓名】 潘濬(はんしゅん) 【あざな】 承明(しょうめい)

【原籍】 武陵郡(ぶりょうぐん)漢寿県(かんじゅけん)

【生没】 ?~239年(?歳)

【吉川】 第226話で初登場。
【演義】 第073回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・潘濬伝』あり。

劉備(りゅうび)から孫権(そんけん)へ鞍(くら)替え後、活躍を見せ呉の九卿(きゅうけい)に昇る

父母ともに不詳。息子の潘翥(はんしょ)は跡継ぎで、潘秘(はんひ)も同じく息子。ほかに孫慮(そんりょ)に嫁いだ娘がいた。

潘濬は20歳前後で宋忠(そうちゅう)に就いて学び、30歳にならないころ荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)から招かれ、江夏(こうか)の「従事(じゅうじ)」に任ぜられる。

郡下の沙イ県長(さいけんのちょう)が賄賂を受け取っていたため、潘濬が法律に従い処刑したところ、郡中は彼の厳正さに震え上がったという。やがて潘濬は「湘郷県令(しょうきょうけんのれい)」に転じたが、その統治ぶりを人々から大いに評価された。

208年、劉備が荊州を治めると、潘濬は「治中従事(ちちゅうじゅうじ)」に任ぜられた。

211年、劉備が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて益州(えきしゅう)へ向かうと、潘濬は荊州にとどまり事務処理にあたった。

219年、劉備配下の関羽(かんう)が処刑され孫権が荊州を治めるようになると、潘濬は「輔軍中郎将(ほぐんちゅうろうしょう)」として兵をひきいることになった。のち「奮威将軍(ふんいしょうぐん)」に昇進し「常遷亭侯(じょうせんていこう)」に封ぜられた。

229年、孫権が帝位に即くと、潘濬は「少府(しょうふ)」に任ぜられ「劉陽侯(りゅうようこう)」に爵位が進む。次いで「太常(たいじょう)」に昇進した。

231年、五谿(ごけい)の異民族が反乱を起こすと、潘濬は「仮節(かせつ)」として討伐の諸軍をひきいる。彼が信賞必罰の方針を貫いた結果、数万人を斬ったり捕らえたりすることができ、異民族の勢力も衰えて地域は平穏を取り戻した。

234年、潘濬は五谿の討伐を終え帰還すると、陸遜(りくそん)とともに武昌(ぶしょう)にあって、これまで通り駐屯軍を監督した。

このころ校事(こうじ)の呂壱(りょいつ)がほしいままに権力を振るい、丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)や左将軍(さしょうぐん)の朱拠(しょきょ)らを弾劾したため、彼らはみな軟禁状態にされてしまう。

潘濬は、呂壱を重用しないよう孫権を諫めるつもりで建業(けんぎょう)に上ったが、すでに皇太子(こうたいし)の孫登(そんとう)が同様の上言を行っており、しかも聴き入れられなかったことを知った。

そこで潘濬は百官を一堂に招き、その席で自ら呂壱を誅殺しようと考えたものの、呂壱は病と称して出てこない。それでも潘濬は諦めず、孫権の御前で呂壱の悪事を述べ立てたので、そのうち呂壱への寵愛も薄れていき、結局は(238年に)誅殺されることになった。

孫権は呂壱を重用した自身の責任を認めるとともに、思いきって諫言しなかった重臣たちをも問責した。

239年、潘濬は死去し、息子の潘翥が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』に、孫権が荊州を降した際の話がありました。

このとき劉備の配下だった部将や官吏はみな孫権に帰順しましたが、潘濬だけ病と称して出てこなかったそうです。

そこで孫権は人を遣り、潘濬を牀(しょう。寝台)に乗せたまま運んでこさせました。それでも彼は起き上がろうとせず、ただ涙を流すばかり……。

この様子を見た孫権が、潘濬にあざなで呼びかけ古人の例を挙げて諭したところ、ついに彼も牀から下り拝謝したというもの。

一方で『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記には、潘濬は麋芳(びほう)・士仁(しじん)・郝普(かくふ)らと同様に関羽と仲が悪く、孫権が関羽を攻撃すると降伏してしまったことが記されており、4人まとめて「裏切り者」というくくりになっています。

本当のところはわかりませんけど、やはり陳寿から見れば、潘濬は「裏切り者」ということになるのでしょうね。

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