顧悌(こてい) ※あざなは子通(しとう)

【姓名】 顧悌(こてい) 【あざな】 子通(しとう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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礼教を忠実に実践した末に……

父は顧向(こきょう)だが、母は不詳。顧雍(こよう)とは同族。顧彦(こげん)・顧礼(これい)・顧謙(こけん)・顧秘(こひ)という息子がいた。

顧悌は孝心の厚さや清廉さをもって郷里で名を知られていた。15歳のとき郡吏となり、のち中央へ入り郎中(ろうちゅう)に任ぜられ、やがて偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。

242~250年にかけ皇太子(こうたいし)の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)の間に確執が生ずる(「二宮の変」)と、顧悌は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の朱拠(しゅきょ)と上陳を繰り返し、朝廷の者たちから憚(はばか)られた。

また顧悌は礼教を忠実に実践し、毎晩遅くなってから寝室へ入り、翌朝早く出ていったため、妻が夫の顔を見ることはまれだったという。

あるとき顧悌が重い病にかかり、奥にいた妻が心配して彼を見舞う。だが、顧悌は左右の者に命じて助け起こさせると頭巾をかぶって対面し、妻に部屋へ戻るよう促した。

父の顧向は4県の県令(けんれい)を歴任した後、年を取ったため官を退いていた。

顧悌は父の手紙を受け取ると必ず辺りを掃き清め、衣服を整え、文机と敷物を用意したうえ拝跪(はいき)して読んだ。一句読むごとに「はい」とうなずき、読み終えると再拝した。父が病にかかったことを知ると手紙を前に涙し、嗚咽(おえつ)で言葉を詰まらせるほどだった。

その父が天寿を全う(時期は不明)すると、顧悌は5日間まったく水を飲まなかった。孫権(そんけん)は彼の身を案じ、柔らかい綿を詰めた麻の服を作って与え、これを喪服に代えるよう強く言った。

顧悌は公の定めに従い、やむなく父の葬儀を執り行ったが、そのあと壁に柩(ひつぎ)を描かせて霊座を設け、そちらに向かい哭泣(こっきゅう)し続けた。そして顧悌は父の喪が明けないうちに死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・顧雍伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるもの。

顧悌の礼教への傾倒ぶりは度を越しているように見えますが、当時はこういう考え方もアリだったのでしょう。

ただ、そうした激烈な服喪が影響したのか、顧悌自身が父の喪が明ける前に亡くなってしまいました。さすがにこれは父の望むところではなかったと思います。なお、孫権が252年に崩じていることを考えると、顧悌の没年もほぼ同時期だったはずです。

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