【姓名】 董厥(とうけつ) 【あざな】 龔襲(きょうしゅう)
【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)義陽県(ぎようけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第087回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・諸葛亮伝(しょかつりょうでん)』に付された「董厥伝」あり。
諸葛亮から人柄や仕事ぶりを高く評価される
父母ともに不詳。
董厥は諸葛亮の丞相府(じょうしょうふ)で令史(れいし)を務めたが、思慮深く優れた人物としてたたえられた。
やがて丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)に昇進し、234年に諸葛亮が死去すると、さらに昇進を重ねて尚書僕射(しょうしょぼくや)となった。
後に陳祗(ちんし。258年没)に代わって尚書令(しょうしょれい)となり、さらに輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)に昇進。
261年、衛将軍(えいしょうぐん)の諸葛瞻(しょかつせん)とともに平尚書事(へいしょうしょじ)となった。
★このときの董厥は、輔国大将軍・南郷侯(なんきょうこう)だったとある。
董厥が、諸葛瞻や樊建(はんけん)とともに政務を受け持ち、姜維(きょうい)が外征を繰り返すようになってから、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が実権をほしいままにした。しかしみな互いにかばい合い、この状況を矯正することはできなかった。
263年、劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏し、蜀が滅亡。
翌264年春、董厥は、樊建らとともに魏都の洛陽(らくよう)へ上り、相国参軍(しょうこくさんぐん)に任ぜられる。
同年秋、ふたりとも散騎常侍(さんきじょうじ)を兼任したうえ、蜀の人々の慰撫(いぶ)にあたった。なお、その後の董厥については記事がない。
管理人「かぶらがわ」より
董厥は諸葛亮から高く評価されていましたが、本伝にあるそのほかの記事は、官職の変遷に触れた程度でした。
それにしても、当時は「人」が大切に扱われています。降伏した君主を処刑したりはしませんし、才能ある旧臣たちは、移籍先でもすぐに起用されますから――。
まぁそうしないと、併合した蜀の地を落ち着かせることはできないか……。とはいえ、水面下ではいろいろな摩擦も生じていたのでしょうね。
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