【姓名】 顧譚(こたん) 【あざな】 子黙(しもく)
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 ?~?年(42歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・顧雍伝(こようでん)』に付された「顧譚伝」あり。
全琮(ぜんそう)父子の恨みを買い、流罪の憂き目に遭う
父は顧邵(こしょう)だが、母は不詳。顧雍は祖父。顧承(こしょう)は弟。
顧譚は20歳のころ、諸葛恪(しょかつかく)・張休(ちょうきゅう)・陳表(ちんぴょう)とともに王太子の孫登(そんとう)の僚友(りょうゆう。太子の友人として出仕する者)に選ばれる。彼らは「太子四友」と称された。
★孫登が呉の王太子に立てられた221年のことと思われる。
後に顧譚は太子中庶子(たいしちゅうしょし)から輔正都尉(ほせいとい)に転じ、孫権(そんけん)の赤烏(せきう)年間(238~251年)には、諸葛恪に代わって左節度(させつど)を務める。
顧譚は帳簿を調べる際に算木を使わず、指を折って暗算するだけで誤りを見つけることができたので、配下の者はみな心服したという。
やがて奉車都尉(ほうしゃとい)の官位を加えられ、243年、薛綜(せつそう)の死去に伴って選曹尚書(せんそうしょうしょ)を務める。
この年、祖父で丞相(じょうしょう)の顧雍が死去すると、その数か月後に顧譚は太常(たいじょう)に任ぜられ、顧雍に代わって平尚書事(へいしょうしょじ)となった。
このころ孫権は魯王(ろおう)の孫霸(そんは)を寵愛し、皇太子の孫和(そんか)と同等の待遇を与えていた。
顧譚は上疏して諫め、皇太子と魯王の扱いに差をつけ、身分の上下をはっきりさせるべきだと主張。そのため孫霸との関係が悪化する。
また、全琮の息子の全寄(ぜんき)は孫霸の賓客になっていたが、彼は性格にねじ曲がったところがあり、顧譚は蔑視していた。
先の241年、弟の顧承が張休とともに北征し、魏(ぎ)の寿春(じゅしゅん)を攻めた。このとき呉軍の大都督(だいととく)を務めたのは全琮だった。
魏将の王淩(おうりょう)と芍陂(しゃくひ)で戦うも、呉軍は劣勢となり、魏軍は勝ちに乗じて五営将(ごえいしょう)の秦晃(しんこう)の軍を壊滅させる。
だが、そのような状況下で顧承と張休が奮闘したため、何とか魏軍の侵攻を食い止めることができた。
ここで全琮の息子の全緒(ぜんしょ)や従子(おい)の全端(ぜんたん)らが軍勢を進め、王淩軍を攻撃して撤退に追い込む。
それでも戦後の論功行賞において、魏軍を食い止めた功績のほうが高く評価され、魏軍を撤退させた功績のほうは、さほど評価されなかった。
これにより顧承は奮威将軍(ふんいしょうぐん)に、張休は揚武将軍(ようぶしょうぐん)に、それぞれ任ぜられたが、全緒と全端は偏将軍(へんしょうぐん)や裨将軍(ひしょうぐん)に任ぜられるにとどまった。
この扱いに全琮と息子の全寄が恨みを募らせ、共謀して顧譚を陥れる。
後に顧譚は交州(こうしゅう)へ配流されたが、かの地で発憤して『新言(しんげん)』20編を著す。このうち「知難編(ちなんへん)」は、自身の境遇を悲しみ悼んだものだったという。
配流から2年後、顧譚は42歳で死去(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の記事には捉えづらい部分があり、顧譚の没年など、イマイチはっきりしないところが残りました。
242年に孫和が皇太子に立てられた後、弟で魯王の孫霸との間で国を二分した勢力争いが起こったわけですが……。顧譚のほかにも、孫霸派の讒言(ざんげん)を受けて交州へ配流された人物が何人かいます。
彼の祖父の顧雍が死去したのは243年11月のこと。その数か月後に太常に就任したのなら、顧譚が配流されたのは243年中ではないですよね。
さらに、顧譚は配所で2年後に42歳で死去したとありましたが、それからさかのぼると、孫登の僚友に召された時期との兼ね合いがよくわかりません。
もう少しほかの人物の記事を調べて、比較してみる必要がありそうです。
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