顧邵(こしょう)

【姓名】 顧邵(こしょう) 【あざな】 孝則(こうそく)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~?年(32歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・顧雍伝(こようでん)』に付された「顧邵伝」あり。

出自にはこだわらず、有能な人材を次々に登用

父は顧雍だが、母は不詳(陸氏〈りくし〉か?)。顧裕(こゆう)と顧済(こせい)は弟。妻は孫氏(そんし。孫策〈そんさく〉の娘)で、このほかに陸氏の存在もうかがえる(後妻かも?)。顧譚(こたん)と顧承(こしょう)という息子がいた。なお、顧邵は「顧劭(こしょう)」とも表記される。

顧邵は広く経書やその注釈書を読み、人物の評論を好んだ。若くして舅(おじ。母の兄弟)の陸績(りくせき)と並び称され、陸遜(りくそん)・張敦(ちょうとん)・卜静(ぼくせい)らより名声が高かったという。

郷里の志ある者や各地の人士が顧邵を訪ね、議論したり厚い交わりを結んだりしたので、彼のうわさが伝わり遠近から称賛された。また、孫権(そんけん)の計らいで孫策の娘を娶った。

顧邵は27歳の時に初めて出仕し「豫章太守(よしょうのたいしゅ)」となる。豫章に到着すると、この地の先賢たる徐孺子(じょじゅし)の墓参りをし、その子孫を厚遇。そして淫祀(いんし)や礼に背くような祭祀を禁じた。

下級官吏に資質を備えた者を見つけると学問をさせ、進歩の著しい者を要職に起用する。加えて善行のある者を顕彰したので教化は大いに行き渡った。

丁諝(ていしょ)は兵卒の出身、張秉(ちょうへい)は庶民の生まれ、呉粲(ごさん)や殷礼(いんれい)は微賤(びせん)から身を起こした者だったが、顧邵は彼らを抜てきしたうえ友人として付き合う。

そののち丁諝は「典軍中郎(てんぐんちゅうろう)」に、張秉は「雲陽太守(うんようのたいしゅ)」に、殷礼は「零陵太守(れいりょうのたいしゅ)」に、呉粲は「太子少傅(たいししょうふ)」に、それぞれ昇る。そのため世の人々は、顧邵には有能な人物を見いだす才があるとたたえた。

豫章にあること5年、顧邵は在官のまま死去(時期は不明)した。このとき32歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

顧邵は名門の出身でありながら、登用する人物の出自にはこだわらず、その本質を見抜く目を持っていました。彼のような存在は孫権にとってもありがたかったでしょうね。

父の顧雍は長く「丞相(じょうしょう)」を務め、243年に66歳で死去しましたが、この時点で顧邵は亡くなっていたといい、末弟の顧済が顧雍の跡を継いでいます。

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