盧毓(ろいく) ※あざなは子家(しか)、魏(ぎ)の容城成侯(ようじょうせいこう)

【姓名】 盧毓(ろいく) 【あざな】 子家(しか)

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 183~257年(75歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・盧毓伝』あり。

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公正な態度で適材の登用に努める、容城成侯(ようじょうせいこう)

父は盧植(ろしょく)だが、母は不詳。3人の兄がいたものの、いずれも名は出てこない。

廬欽(ろきん)と盧珽(ろてい)というふたりの息子がいたが、跡を継いだのは孫の盧藩(ろはん)。このほか華表(かひょう)の息子の華廙(かい)に嫁いだ娘もいた。

192年、盧毓は10歳で父を亡くし、幽州(ゆうしゅう)の動乱でふたりの兄も失う。

袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)の争いが続き、幽州や冀州(きしゅう)では食糧難に苦しむ。しかし、盧毓は夫を亡くした兄嫁と父を亡くした兄の子を養い、学問と品行をたたえられた。

211年、曹丕(そうひ)が五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)になると、盧毓は召されて門下賊曹(もんかぞくそう)に任ぜられた。

次いで崔琰(さいえん)の推挙を受け、冀州主簿(きしゅうしゅぼ)に転ずる。

このころ天下は草創期にあり、逃亡者が多かった。そのため士卒の逃亡に対する法を厳しくし、妻子まで連座させていた。

逃亡した士卒の妻の白(はく)らは数日前に嫁いだばかりで、夫と顔を合わせてもいなかったが、大理(だいり。官名)は死刑にすべきと上言した。

盧毓は『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『尚書(しょうしょ)』を引いて反対し、すでに白らは結納を受け取り、夫の家に入っているから刑罰に処するのはやむを得ないが、死刑は重すぎると述べる。

これを聞いた曹操(そうそう)は、盧毓の意見が正しいと感嘆。彼を丞相法曹議令史(じょうしょうほうそうぎれいし)とし、後に西曹議令史(せいそうぎれいし)に転任させた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国された後、盧毓は吏部郎(りぶろう)となる。

220年、曹丕が帝位に即くと黄門侍郎(こうもんじろう)に移り、地方へ出て済陰国相(せいいんこくしょう)、梁郡太守(りょうぐんたいしゅ)、譙郡太守(しょうぐんたいしゅ)を歴任した。

曹丕は郷里の譙へ大勢の民を移住させ、屯田を行わせる。だが、譙の土地は痩せていて民は困窮した。

盧毓はこの様子を哀れんで上奏文を奉り、彼らを梁の肥沃な土地に移住させるよう主張し、曹丕の機嫌を損ねる。

曹丕は上奏を聴許したものの、心中では腹立たしく思う。そこで盧毓に移住者の統率を命じ、睢陽(すいよう)の典農校尉(てんのうこうい)に左遷した。

それでも盧毓は民に利益をもたらすことに努め、自ら視察した美田を選んで住まわせる。民はそのような人柄の彼を頼りにしたという。

後に盧毓は安平太守(あんぺいたいしゅ)や広平太守(こうへいたいしゅ)を歴任し、いずれの任地でも恩恵と教化を行き渡らせた。

234年、盧毓は朝廷に入って侍中(じちゅう)となる。

このころ散騎常侍(さんきじょうじ)の劉劭(りゅうしょう)らが、曹叡(そうえい)の詔(みことのり)を受けて刑法の制定にあたったが、まだ完成していなかった。

盧毓は上奏文を奉り、古今の刑法について論じたうえ、法を作る場合は一貫性と公正さを求めるべきで、姦吏(かんり)が私情を差し挟めるような矛盾点を残してはならないと述べた。

また、たびたび宮殿造営を諫めて曹叡の不興を買った侍中の高堂隆(こうどうりゅう)について、主君が聡明(そうめい)であるから臣下も正直(せいちょく)なのだとして、高堂隆のような者たちを容認するよう求めた。

こういう具合に、盧毓は侍中の任にあった3年の間、しばしば曹叡の政策に反対した。

しかし曹叡は、詔の中で盧毓の人柄や功績をたたえ、吏部尚書(りぶしょうしょ)に任ずる。その際、彼に後任を推薦させ、鄭沖(ていちゅう)・阮武(げんぶ)・孫邕(そんよう)の3人の中から孫邕を起用した。

237年2月に陳矯(ちんきょう)が死去してから、しばらく司徒(しと)は欠員となっていた。

盧毓は初め無官の管寧(かんねい)を推薦したが、曹叡は起用する気になれず、改めて次善の候補者を尋ねる。

そこで盧毓は、篤実で品行に優れる太中大夫(たいちゅうたいふ)の韓曁(かんき)、清明で方正な司隷校尉(しれいこうい)の崔林(さいりん)、誠実で純粋な太常(たいじょう)の常林(じょうりん)の3人を推薦。

翌238年2月、曹叡は韓曁を司徒として起用した。

盧毓が人材を選抜する場合、先に性格や品行を問題とし、後で才能に触れた。黄門の李豊(りほう)から理由を尋ねられたとき、彼はこう答える。

「才能とは善を行うためにあるものだ。だから大才は大きな善を成し遂げ、小才は小さな善を成し遂げる」

「才能があると称揚されていても、善を行うことができないなら、それは才能が役に立たないということなのだ」

李豊らは盧毓の言葉に感服したという。

翌239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、盧毓は関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

このころ曹爽(そうそう)が実権を握り、自身の勢力を府内に打ち立てようと考える。

そこで盧毓を僕射(ぼくや。尚書僕射)に移し、侍中の何晏(かあん)を後任(吏部尚書)に充てた。

しばらくすると、さらに盧毓は廷尉(ていい)に移され、司隷校尉の畢軌(ひっき)もでたらめな上奏を受けて免職となった。

こうした措置が世論の批判を浴びたため、盧毓は光禄勲(こうろくくん)に任ぜられる。

249年、曹爽らが逮捕されると、盧毓は太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)から司隷校尉を兼務するように言われ、彼らの裁判を担当した。

後に盧毓は再び吏部尚書となり、奉車都尉(ほうしゃとい)の官位を加えられ、高楽亭侯(こうらくていこう)に爵位が進む。

さらに尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に転じたが、もとの通り官吏の選抜を担当し、光禄大夫(こうろくたいふ)の官位を加えられる。

254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと、盧毓は大梁郷侯(たいりょうきょうこう)に爵位が進み、息子のひとりが亭侯に封ぜられた。

翌255年、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽(ぶんきん)が淮南(わいなん)で反乱を起こす。

このとき大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が討伐に向かったが、盧毓は後の諸事を取り仕切り、侍中の官位を加えられた。

翌256年、盧毓は重病のため退官を願い出たが認められず、同年7月には司空(しくう)に昇進した。

すると盧毓は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の王昶(おうちょう)、光禄大夫の王観(おうかん)、司隷校尉の王祥(おうしょう)を自分の代わりとして強く推す。

それでも曹髦は詔を下し、勅使を盧毓の屋敷に遣わす。

そして盧毓に印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を授け、容城侯に爵位を進める。封邑(ほうゆう)は2,300戸だった。

翌257年、盧毓は75歳で死去して成侯と諡(おくりな)され、孫の盧藩が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

公孫瓚や劉備(りゅうび)は盧植の下で学びましたが、盧毓はこのふたりには仕えなかったのですね。

また、左遷されてもその地で励んで治績を上げるあたりに精神的な強さがうかがえます。

盧毓は長く官吏を登用する役目にありましたが、ずっと公正な態度を貫きました。

人材の選抜で才能より性格や品行を重視する考え方など、なかなか深いものがあるなと感じました。

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