留平(りゅうへい)

【姓名】 留平(りゅうへい) 【あざな】 ?

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)長山県(ちょうざんけん)

【生没】 ?~272年?(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。

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幻に終わった孫晧(そんこう)廃位計画のキーパーソン

父は留賛(りゅうさん)だが、母は不詳。留略(りゅうりゃく)という兄がいた。

263年10月、孫休(そんきゅう)のもとに知らせが届き、蜀(しょく)が魏(ぎ)の攻撃を受けていることが判明する。

そこで孫休は、大将軍(だいしょうぐん)の丁奉(ていほう)を魏の寿春(じゅしゅん)へ向かわせた。

このとき将軍(征西将軍〈せいせいしょうぐん〉か?)の留平も命を受け、南郡(なんぐん)にいた施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)のもとへ赴く。

さらに、将軍の丁封(ていほう)と孫異(そんい)が沔中(べんちゅう。漢水〈かんすい〉流域)へ軍勢を進めた。

こうした動きはみな魏を牽制(けんせい)し、蜀を援護するためのものだった。

だが、ほどなく蜀の劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏したとの知らせが届くと、これらの軍事行動は取りやめになった。

翌264年2月、征西将軍の留平は、鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)の陸抗(りくこう)、撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)の歩協(ほきょう)、建平太守(けんぺいたいしゅ)の盛曼(せいまん)らとともに軍勢をひきい、蜀で巴東(はとう)の守備隊長を務めていた羅憲(らけん)を包囲する。

同年7月、魏の曹奐(そうかん)が将軍の胡烈(これつ)に命じ、歩騎2万を西陵(せいりょう)に差し向けて羅憲を助ける。このため西陵を包囲していた呉軍は軍勢をまとめて引き揚げた。

266年、左丞相(さじょうしょう)の陸凱(りくかい)が大司馬(だいしば)の丁奉や御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)と謀り、孫晧の廃位をもくろむ。

陸凱らは孫晧が宗廟(そうびょう)に詣でる機会を狙おうと考えたが、このころ左将軍(さしょうぐん)の留平が、孫晧の先導役を務めることが多かった。

留平は密かに計画を伝えられたものの、協力を拒む。一方で聴いた話は決して漏らさぬことを誓う。

留平の協力が得られなかったことから、廃位計画は立ち消えに終わった。

271年、孫晧が多くの人々を引き連れて、建業(けんぎょう)の西方にある華里(かり)まで行幸する。このとき孫晧の母である何太后(かたいこう)や妃妾(きさき)たちも随行した。

東観令(とうかんれい)の華覈(かかく)らが必死で引き止めたため、ようやく孫晧は都(建業)へ戻ることに同意した。

このとき右丞相(ゆうじょうしょう)の万彧(ばんいく)は、留平や丁奉に密かに相談し、「もし主上(孫晧)が都に戻られないようなら、国家のことは重大だから、自分たちだけでも帰らねばならない」と言ってしまう。

そのうち密談の内容は孫晧の知るところとなったが、万彧らが旧臣だったのでひとまずそのままにしておき、心中で報復の機会をうかがうことにした。

翌272年、孫晧は宴席で万彧に毒酒を飲ませたものの、給仕役が毒の量を減らしたために死なずに済む。だが、万彧はこの年のうちに自害した。

留平も毒酒を飲んだが、異変に気づく。彼は解毒薬を用いて助かったが、やはり不安と怒りのため、それからひと月余り(時期は不明)で亡くなったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)と『三国志』(呉書・陸凱伝)および『三国志』(呉書・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によるもの。

孫晧の廃位計画に関しては『三国志』(呉書・陸凱伝)の裴松之注に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に「陸凱伝」とは一部異なる話が見えます。

もともと呉では、皇帝が宗廟に詣でる際に適任者を選んで大将軍職を兼ねさせ、3千の兵をひきいて護衛を務めることになっていました。

陸凱は護衛の兵士を使って孫晧を除こうと考え、選曹(せんそう。人事をつかさどる役)に命じて丁奉を推薦させます。

しかし孫晧は何となく気に入らず、別の者にせよと応えました。

そこで陸凱は再び選曹に指示し、形式的な兼職ではあるが、やはりそれなりの人物を充てなくてはいけない、と言わせます。

それを聞いた孫晧は留平を指名しました。

陸凱は息子の陸禕(りくい)を遣り、留平に謀計を伝えようとします。

ところが、その席で留平がうれしそうに言いました。

「聞くところによれば、丁奉の軍営に野生の豚が入り込んだそうだ。これは凶兆だ」

陸禕は、留平が丁奉をひどく嫌っていることに気づいたので、謀計の話をしないまま帰りました。そのため計画は立ち消えになったのだという。

留平と丁奉の仲が悪くなければ、孫晧の廃位計画は成功していたかもしれませんね。

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