【姓名】 丁固(ていこ) 【あざな】 子賤(しせん)
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん)
【生没】 198~273年(76歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
困難な状況下で培った徳をたたえられ、司徒(しと)まで昇る
父は丁覧(ていらん)だが、母は不詳。丁彌(ていび)という息子がいた。
丁密(ていみつ)は若いころに父を亡くし、母とふたりで暮らす。家は貧しかったが孝養を尽くし、身寄りのない同族の年少者たちの面倒も見た。
242年、皇太子の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との間で「二宮の変(孫和派と孫霸派による確執)」が起こると、尚書(しょうしょ)の丁密は礼に従って孫和を支持した。
257年、鄱陽(はよう)および新都(しんと)の両郡で孫亮(そんりょう)に対する反乱が起こると、廷尉(ていい)の丁密は将軍の鍾離牧(しょうりぼく)や歩兵校尉(ほへいこうい)の鄭冑(ていちゅう)とともに軍勢をひきい、これを討伐した。
262年、廷尉の丁密は、孫休(そんきゅう)から左御史大夫(さぎょしたいふ)に任ぜられた。
264年、孫晧(そんこう)が帝位を継ぎ、滕氏(とうし)が皇后に立てられると、丁密は彼女の父である滕密(とうみつ)の名を避けて固(丁固)に改めた。滕密のほうも、丁密の名を避けて牧(ぼく。滕牧)に改めたという。
翌265年、孫晧が武昌(ぶしょう)に遷都すると、丁固は右将軍(ゆうしょうぐん)の諸葛靚(しょかつせい)らとともに、旧都の建業(けんぎょう)の守備を担う。
翌266年10月、永安(えいあん)の山賊の施但(したん)らが数千人の手下を集め、孫晧の異母弟で永安侯(えいあんこう)の孫謙(そんけん)を脅して同行させたうえ、孫晧らの父である孫和の陵墓を荒らす。
施但が建業に迫ったとき、その徒党は1万余人まで増えていた。
そこで丁固と諸葛靚が牛屯(ぎゅうとん)で迎撃し、激戦の末に施但を敗走させ、孫謙の身柄を保護した。だが、ほどなく孫謙は自殺してしまう。
同年12月、孫晧は再び建業に遷都し、武昌の守備には衛将軍(えいしょうぐん)の滕牧を残した。
268年、丁固は司徒に昇進。
273年、丁固が死去。このとき76歳だった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・三嗣主伝〈さんししゅでん〉)と『三国志』(呉書・虞翻伝〈ぐはんでん〉)およびその裴松之注(はいしょうしちゅう)によるものです。
丁固の伝がないため詳しい経歴は不明ですが、『三国志』(呉書・虞翻伝)の裴松之注に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』には、闞沢(かんたく)が赤ん坊だったころの彼を見るなり非凡さを感じ取った話や、虞翻が丁固の同僚に宛てた手紙の中で、彼の備える徳を激賞したとの話もありました。
また『三国志』(呉書・陸凱伝〈りくかいでん〉)では、266年12月の孫晧暗殺計画について採り上げていました。
これは陸凱が大司馬(だいしば)の丁奉(ていほう)や御史大夫(左御史大夫)の丁固と計り、孫晧が廟(びょう)に詣でる機会を捉え、彼を廃して孫休の息子を帝位に即けようとしたもの。
そのとき左将軍(さしょうぐん)の留平(りゅうへい)が兵士をひきい、儀仗(ぎじょう)の先導役を務めることになっていたので、この計画を密かに伝えます。
留平は計画への協力を拒みましたが、聞いた話は誰にも漏らさないと誓いました。結局、留平の協力が得られなかったことから、計画は実行されないまま終わったのだと……。
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