畢軌(ひっき) ※あざなは昭先(しょうせん)

【姓名】 畢軌(ひっき) 【あざな】 昭先(しょうせん)

【原籍】 東平国(とうへいこく)

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「畢軌伝」あり。

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曹爽(そうそう)の取り巻きのひとり、幷州(へいしゅう)在任時は国境地帯を抑えられず

父は畢子礼(ひつしれい)だが、母は不詳。

畢軌はその才能により若いころから名声があった。曹叡(そうえい)が東宮(とうぐう)にいたとき文学(ぶんがく。官名)を務めた。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)の末には地方に出て長史(ちょうし)となる。226年に曹叡が帝位を継ぐと、宮中に入って黄門郎(こうもんろう)となった。

息子が公主(曹叡の娘?)を娶(めと)ったため、畢軌の屋敷は大変に豪華なものだった。やがて幷州刺史(へいしゅうしし)に栄転したが、その在任中は驕慢(きょうまん)だと評判になった。

当時、しばしば烏丸(うがん)や鮮卑(せんぴ)の諸部族が暴れて官民に被害を与えており、畢軌は曹叡に上表し、軍勢を国境の外まで派遣したものの、鮮卑の軻比能(かひのう)と戦って敗れる。これを受けて幷州から移され、他州へ赴任することになった。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に至ると、中央へ戻って中護軍(ちゅうごぐん)となる。後に侍中(じちゅう)・尚書(しょうしょ)に栄転し、司隷校尉(しれいこうい)に昇進した。

畢軌は普段から曹爽と仲が良く、彼の進言は曹爽に聞き入れられることが多かった。

249年、司馬懿(しばい)がクーデターを発動(正始の政変)。畢軌は曹爽兄弟やほかの取り巻きたちとともに大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた畢軌の経歴については、ほぼ『三国志』(魏書・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

また、幷州の国境地帯での争いについては『三国志』(魏書・鮮卑伝)に記事がありました。

233年、先に魏に降って幷州の支配を受けた鮮卑の大人(たいじん。部族の有力者)の歩度根(ほどこん)に対し、さらに北にいて、魏に背いた鮮卑の附義王(ふぎおう)の軻比能が誘いをかけ、密かに誼(よしみ)を通じます。軻比能は1万騎をひきい、歩度根の一族を陘北(けいほく)まで迎えに出ました。

この動きを知った幷州刺史の畢軌は、将軍の蘇尚(そしょう)と董弼(とうひつ)らを遣って軻比能を攻撃。軻比能は息子に騎兵を与えて応戦し、楼煩(ろうはん)で魏の二将を殺害します。

『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)には、曹叡が畢軌の出兵を願い出る上表を受け、急に兵を出すことで歩度根と軻比能を連合させてはならないと考え、国境を越えないよう戒めたとあります。

ですがこの詔書が届いたころ、すでに畢軌は軍を進めて陰館(いんかん)に駐屯しており、蘇尚と董弼に鮮卑を追撃させていたのです。

楼煩における魏軍の大敗後、歩度根の部族はこぞって反旗を翻し、軻比能と合流して国境一帯に害を加えました。

そして、曹叡が驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)の秦朗(しんろう)に討伐を命じ、ようやく鮮卑は北方の砂漠へ逃走したのでした。

都にいる曹叡より状況が読めていなかった畢軌。軍事のセンスもないのに急いで出撃したりして、いったいどういうつもりだったのでしょうか?

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