全琮(ぜんそう) ※あざなは子璜(しこう)

【姓名】 全琮(ぜんそう) 【あざな】 子璜(しこう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)銭唐県(せんとうけん)

【生没】 ?~247年?(本伝には249年とある)

【吉川】 第287話で初登場。
【演義】 第096回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・全琮伝』あり。

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長きにわたって孫権(そんけん)を支えた名将ながら、その才質を受け継ぐ子孫には恵まれず

父は全柔(ぜんじゅう)だが、母は不詳。全緒(ぜんしょ)・全寄(ぜんき)・全懌(ぜんえき)・全呉(ぜんご)という息子がおり、爵位を継いだのは全懌。妻は孫権の娘の孫魯班(そんろはん)。

194年、孫策(そんさく)が呉郡にやってくると、全柔は真っ先に配下に加わり、孫策の上表によって丹楊都尉(たんようとい)に任ぜられた。

209年、孫権が車騎将軍(しゃきしょうぐん)になると、全柔は将軍府の長史(ちょうし)を務め、後に桂陽太守(けいようたいしゅ)に転じた。

あるとき全琮は全柔の命を受け、数千斛(ごく)の米を呉県に運び、これを売って必要な品々を買いそろえようとする。

ところが呉県に着くと、全琮は運んできた米を人々に分け与えてしまい、船には何も積まずに帰った。

全柔は激怒したが、全琮は、暮らしに困っている士大夫らの苦境を見過ごせず、その場で米を分け与えたと説明。これを聞いた全柔は、ますます全琮の非凡さを感じたという。

当時は中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)の士人のうち、戦乱を避けて南方へ移住しようとして全琮を頼る者が数百家に上った。

全琮は家財を傾けて援助し、自分の持ち物も彼らと共用したので、その名が遠近に聞こえるようになった。

その後、全琮は奮威校尉(ふんいこうい)に任ぜられて数千の兵を授かり、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の討伐に向かう。

さらに兵を募って1万余の精鋭を加えると、牛渚(ぎゅうしょ)まで出て駐屯し、やがて偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。

219年、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)が、魏(ぎ)の樊(はん)と襄陽(じょうよう)を包囲すると、全琮は上疏して関羽討伐の献策を行う。

だが、すでに孫権は呂蒙(りょもう)と策を立てていたため、これが漏れるのを恐れ、わざと全琮の上疏に返答しなかった。

関羽を処刑した後、公安(こうあん)で祝宴が開かれたが、その席で孫権は全琮に言った。

「きみが関羽討伐の献策をしたとき、あえて私は返答しなかった。今日の勝利はきみの功でもあるのだ」

そして全琮は陽華亭侯(ようかていこう)に封ぜられた。

222年、魏の水軍が洞口(どうこう)に攻め寄せた際、全琮は長江(ちょうこう)の中州で魏将の尹盧(いんろ)を討ち取る。

功により綏南将軍(すいなんしょうぐん)に昇進し、銭唐侯に爵位が進んだ。

225年、全琮は仮節(かせつ)となり、九江太守(きゅうこうたいしゅ)を兼ねる。

翌226年、丹楊・呉郡・会稽(かいけい)の3郡で山越の蜂起があり、郡下の諸県が占拠された。孫権は3郡から辺地を分割して東安郡(とうあんぐん)を新設し、全琮を太守に任ずる。

全琮が賞罰を明らかにし、反徒らに降伏を呼びかけ続けたところ、数年の間に1万余人が帰順した。

228年3月、全琮は孫権に呼び返されて、再び牛渚に駐屯することになり、東安郡は廃止された。

同年8月、全琮は孫権に付き従って皖(かん)へ赴き、陸遜(りくそん)とともに、魏の曹休(そうきゅう)を石亭(せきてい)で撃破した。

翌229年、全琮は、衛将軍(えいしょうぐん)・左護軍(さごぐん)・徐州牧(じょしゅうぼく)に昇進し、孫権の娘の孫魯班を娶(めと)る。

孫魯班は再婚で、初め周瑜(しゅうゆ)の息子の周循(しゅうじゅん)に嫁いだが死別した。

233年、全琮が歩騎5万をひきいて魏の六安(りくあん)を攻めたものの、敵を降せないまま引き揚げる。

246年、全琮は右大司馬(ゆうだいしば)・左軍師(さぐんし)に昇進。

翌247年?、全琮が死去し、息子の全懌が爵位を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

全琮の没年はイマイチよくわかりませんでした。

本伝には赤烏(せきう)12(249)年に死去したとありましたが、『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)には、赤烏10(247)年に死去したという記事が見えます。

参考にした文献では、ほとんど前者が採られていたのですけど、記事の内容や前後関係を加味すれば、むしろ後者のほうが合っている気がしました。

全琮は長きにわたって孫権を支えた名将でしたが、「二宮の変(孫和派〈そんかは〉と孫霸派〈そんはは〉による確執)」では息子の全寄とともに孫霸に付き、陸遜との関係を悪化させています。

後に全寄は孫霸に連座する形で処刑され、全懌も呉に寝返った諸葛誕(しょかつたん)の援軍として寿春(じゅしゅん)に赴いた後、魏の鍾会(しょうかい)の計略にかかって降伏。子孫には全琮を超えるほどの偉材がいなかったようです。

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