王淩(おうりょう) ※あざなは彦雲(げんうん)

【姓名】 王淩(おうりょう) 【あざな】 彦雲(げんうん)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)祁県(きけん)

【生没】 172~251年(80歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王淩伝』あり。

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曹氏(そうし)の忠臣も、司馬氏(しばし)にとっては邪魔者

父母ともに不詳。王允(おういん)は叔父。王晨(おうしん)は兄。郭淮(かくわい)に嫁いだ妹もいた。

王広(おうこう)・王飛梟(おうひきょう)・王金虎(おうきんこ)・王明山(おうめいざん)という4人の息子がいた。

192年4月、司徒(しと)の王允らが董卓(とうたく)を誅殺すると、董卓配下の李傕(りかく)や郭汜(かくし)らが復讐(ふくしゅう)に乗り出す。

同年5月、李傕らは長安(ちょうあん)を陥し、王允とその一族を皆殺しにした。このとき王淩と兄の王晨は年少だったが、城壁を乗り越えて脱出し、郷里へ逃げ帰る。

王淩は孝廉(こうれん)に推挙され、発干県長(はっかんけんちょう)に任ぜられる。その後、昇進を重ねて中山太守(ちゅうざんたいしゅ)になった。

すべての任地で治績を上げたため、王淩は曹操(そうそう)に召されて丞相掾属(じょうしょうえんぞく)に転じた。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと王淩は散騎常侍(さんきじょうじ)に任ぜられ、地方へ出て兗州刺史(えんしゅうしし)を務める。

222年、王淩は張遼(ちょうりょう)らとともに広陵(こうりょう)へ赴き、孫権軍(そんけんぐん)と戦う。

長江(ちょうこう)に臨んだ夜中に大風が吹き、敵の呂範(りょはん)らの船が北岸へ流れ着く。

王淩は将軍らと迎え撃ち、敵兵を討ち取ったり捕虜にしたりし、船も拿捕(だほ)した。

王淩は功により宜城亭侯(ぎじょうていこう)に封ぜられ、建武将軍(けんぶしょうぐん)の官位を加えられた。

次いで王淩は青州(せいしゅう)へ転任する。このころ北方の海岸地帯には動乱の影響が残っており、まだ法制も整っていなかった。

そこで王淩は政治を行き渡らせて教化を施し、善悪への賞罰を規律あるものとする。民はその行政を大いにたたえたという。

228年、王淩は曹休(そうきゅう)に付き従って呉(ご)を討伐し、夾石(きょうせき)で交戦した。

魏は敗れたものの、王淩や賈逵(かき)らが力戦して敵の包囲を突破したため、曹休は危難を免れた。

王淩は揚州刺史(ようしゅうしし)を経て豫州刺史(よしゅうしし)に転ずるが、いずれの任地でも軍民から評価された。

王淩は豫州に着任すると、過去の賢人の子孫を顕彰し、まだ世に出ていない士人を探す。

240年、王淩は征東将軍(せいとうしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ)となる。

翌241年、呉の全琮(ぜんそう)が数万の軍勢をひきいて芍陂(しゃくひ)に侵入。王淩は諸軍をひきいて迎え撃ち、堤防を巡って何日も力戦し、敵を退却に追いやった。

王淩は功により南郷侯(なんきょうこう)に爵位が進み、封邑(ほうゆう)は1,350戸となる。そして車騎将軍(しゃきしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)に昇進した。

このとき外甥(がいせい。姉妹の子)の令狐愚(れいこぐ)が兗州刺史となり、平阿(へいあ)に駐屯していた。つまり王淩は甥ともども兵を預かり、淮南(わいなん)地方の権力を掌握していたことになる。

248年、王淩は任地にあって司空(しくう)に昇進した。

翌249年1月、太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)が曹爽(そうそう)らを誅殺すると、王淩は令狐愚と共謀し、若年の曹芳(そうほう)に代えて楚王(そおう)の曹彪(そうひゅう)を立てたうえ、許昌(きょしょう)に都を置きたいと考えた。

このとき曹芳は18歳、曹彪は55歳だった。曹彪は曹操の息子で曹丕の異母弟。

同年9月、令狐愚は将軍の張式(ちょうしょく)を白馬(はくば)に遣わし、曹彪に挨拶させて意を通ずる。王淩も舎人の労精(ろうせい)を洛陽(らくよう)に遣り、息子の王広に意向を伝えた。

王広は司馬懿の政治をいくらか評価しており、彼らが表立って反心を見せていない現状も考え、父を思いとどまらせようとする。しかし王淩は聞き入れなかった。

同年11月、令狐愚は再び張式を曹彪のもとへ遣わしたが、その帰りを待たずに病死してしまう。

同年12月、王淩は太尉(たいい)に昇進し、節鉞(せつえつ。軍権を示す旗とまさかり)を授かる。

翌250年、熒惑(けいわく。火星)が南斗(星座の名)の領域に入り込むと、王淩は斗中に星がある状況を見て、急に高貴な身分になる者が出るはずだと考えた。

翌251年春、呉軍が涂水(とすい)をせき止めると、王淩はこの機に行動を起こそうとする。

王淩は諸軍に臨戦態勢を取らせたうえ、呉の討伐を求める上奏を行ったものの、曹芳の聴許は得られなかった。

そこで王淩は将軍の楊弘(ようこう)を遣り、(令狐愚の後任の)兗州刺史の黄華(こうか)に廃立のことを伝えさせる。

だが黄華と楊弘は、この件を連名で司馬懿に密告した。すぐさま司馬懿は中軍をひきい、水路から王淩の討伐へ向かう。

一方で司馬懿は王淩に対する赦免令を下し、尚書(しょうしょ)の王広を同伴した。

さらに王広に父あての手紙を書かせて説諭させつつ、突如、大軍をもって百尺(ひゃくせき。地名)に到達する。

王淩は追い詰められたことを悟り、ひとり舟に乗って司馬懿を出迎えることにした。

また、掾(えん。属官)の王彧(おういく)を遣って謝罪し、自分の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と節鉞を届けさせた。

ほどなく司馬懿が丘頭(きゅうとう)に着くと、王淩は後ろ手に縛った姿で船着き場へ赴く。

司馬懿は詔(みことのり)を受け、主簿(しゅぼ。官名)を遣って縛めを解かせ、官服に着替えさせてから王淩と会った。

王淩は印綬と節鉞を返してもらうが、600の歩騎をもって都へ護送されることになった。

その道中、項(こう)まで来たところで、王淩は毒薬を飲んで死ぬ。このとき80歳だったともいう。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると王淩が自殺した後、そのまま司馬懿は南下して寿春(じゅしゅん)に行きました。

張式らはみな自首し、事件の究明と処分が行われます。曹彪は死を賜り、事件に関わった者たちも三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)まで処刑されたということでした。

さらに朝廷の論議を経て、『春秋(しゅんじゅう)』の建前通りにすべきだとの結論が出ます。

そこで王淩と令狐愚の墓が暴かれ、柩(ひつぎ)を叩き割られたうえ、近くの市場で3日間にわたって遺骸がさらされました。そして彼らの印綬や官服を焼き捨て、柩なしでじかに土に埋めたということです。

ちなみに、王淩らの計画を司馬懿に知らせた黄華と楊弘は郷侯に爵位が進められました。

曹芳を廃位しようとしたわけなので、謀反といえば謀反なのでしょうが――。後の歴史的な事情を踏まえると、こういう書き方が精いっぱいか。

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