全尚(ぜんしょう)

【姓名】 全尚(ぜんしょう) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)銭唐県(せんとうけん)

【生没】 ?~258年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。

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落日の一族にとどめを刺した失言

父母ともに不詳。全琮(ぜんそう)とは同族。妻は孫峻(そんしゅん)の姉の孫氏(そんし)。全紀(ぜんき)という息子がおり、娘の全氏は孫亮(そんりょう)の皇后となった。

252年、孫亮の即位に伴って娘の全氏が皇后に立てられると、全尚も城門校尉(じょうもんこうい)に任ぜられ、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

その後、全尚は滕胤(とういん)に代わって太常(たいじょう)・衛将軍(えいしょうぐん)に任ぜられ、永平侯(えいへいこう)に爵位が進み、録尚書事(ろくしょうしょじ)となる。

このころ全氏一族から侯に封ぜられた者が5人も出て、それぞれ兵馬を預かり、ほかの者も侍郎(じろう)や騎都尉(きとい)として孫亮の側近の地位を占める。呉の建国以来、これほどの勢力を誇った外戚は例がなかった。

しかし257年、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こすと、諸葛誕の要請を受け、呉の援軍として派遣された全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)・全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)らが魏に投降する。

また、全熙(ぜんき)も陰謀が漏れたため殺害され、こうしたことから全氏一族は衰亡へ向かった。

翌258年、孫亮は孫綝(そんりん)の専横が目に余るとして、全尚や黄門侍郎(こうもんじろう)の全紀、将軍の劉丞(りゅうじょう。劉承〈りゅうしょう〉と同一人物か?)とともに、孫綝を誅殺するため密議した。

ところが(息子の全紀から孫亮の意向を聞いたともいう)全尚が、この話をうっかり妻の孫氏に漏らすと、孫氏は同族である孫綝に危険が迫っていることを伝えてしまう。

先手を打った孫綝は自ら兵士をひきいて全尚を捕らえ、別に弟で武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫恩(そんおん)に命じ、蒼龍門(そうりょうもん。建業〈けんぎょう〉の東門)の外で劉丞を攻め殺す。

そのうえで宮門に大臣たちを呼び集めると、孫亮を退位させて会稽王(かいけいおう)とする旨を、一方的に宣言した。

孫亮と皇后の全氏は会稽へ護送され、全尚は一族とともに零陵(れいりょう)に強制移住させられたが、全尚はこの年のうちに殺害されたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝)と『三国志』(呉書・孫亮全夫人伝〈そんりょうぜんふじんでん〉)、および『三国志』(呉書・孫綝伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によるものです。

257年の諸葛誕がらみの一件で、全氏一族の勢いはだいぶ衰えていましたが、翌258年に全尚が、孫亮の密謀を妻に話したのは大失態ですよね。このことが原因で孫亮のみならず、息子の全紀の命まで縮めることになってしまいましたから……。

2年後の260年、孫亮は会稽郡に広まった流言がもとで、会稽王から候官侯(こうかんこう)に位を貶(おと)され、任地へ向かう途上で自殺(異説もある)します。

一方で妻の全氏は候官で暮らし続け、280年に晋(しん)によって呉が平定されると内地へ戻り、永寧(えいねい)年間(301~302年)に亡くなったということです。

このあたりの経緯については、孫亮の個別記事全氏の個別記事もご覧ください。

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