脂習(ししゅう)

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【姓名】 脂習(ししゅう) 【あざな】 元升(げんしょう)

【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第040回で初登場。
【正史】 登場人物。

誅殺された孔融(こうゆう)を弔うも、その気概が認められる

父母ともに不詳。

脂習は中平(ちゅうへい)年間(184~189年)に郡へ出仕した。三公の役所から召されて上席で推挙され「太医令(たいいれい)」となる。

190年の長安(ちょうあん)および196年の許(きょ)への両遷都時とも献帝(けんてい)に随行。また、少府(しょうふ)の孔融と親交があった。

196年に曹操(そうそう)が「司空(しくう)」となり、その威光や恩徳が日増しに高まっていく中にあり、孔融は以前にように対等に付き合おうとし、曹操に高慢な態度を取り続ける。たびたび脂習は孔融を責め、態度を改めさせようとしたが聞き入れてもらえなかった。

208年、ついに孔融が誅殺されてしまう。このとき許には孔融と親交のあった者もいたが、思い切って遺体を引き取り、弔おうとする者はいなかった。

しかし脂習はひとりで出かけていき、孔融の遺体をさすりながら哭(こく。死者に対して大声を上げて泣く礼)して言った。

「文挙(ぶんきょ。孔融のあざな)よ。きみは私を見捨て死んでしまった……。これから私は誰と語り合えばよいのだろうか?」

脂習の悲しみや嘆きは尽きることがなかったという。

このことを聞くと、曹操は脂習を逮捕して裁判にかけようとする。だが、そのうち彼の行いを理解し、罪に問わないことにした。

こうして脂習は許の東にある土橋のたもとで暮らすことになる。のち曹操に目通りした際、脂習は前の過失(孔融を弔ったこと)を陳謝した。すると曹操は特にあざなを呼んで言った。

「元升。もともときみには気概があったからなぁ……」

さらに今の住まいについて尋ね、穀物100斛(こく)を下賜する。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、詔(みことのり)によって脂習の起用が検討されたものの、すでに年を取りすぎていると判断された。

それでも、彼の旧友に対する誠実さを嘉(よみ)し、欒布(らんぷ)の節義を持っていると評価して「中散大夫(ちゅうさんたいふ)」に任じた。脂習は退官後に家に帰り、80余歳で死去(時期は不明)した。

欒布(?~前145年)は秦末(しんまつ)前漢(ぜんかん)の人。梁王(りょうおう)の彭越(ほうえつ)の使者として斉(せい)へ行っている間に、彭越は漢王(かんおう)の劉邦(りゅうほう。後の漢の高祖〈こうそ〉)から謀反の疑いをかけられて誅殺された。戻ってきた欒布は劉邦の命令に背き、洛陽(らくよう)でさらされていた彭越の首に復命。さらに哭泣したものの、結局は許された。『史記(しき)』および『漢書(かんじょ)』に伝がある。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王脩伝〈おうしゅうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

この『魏略』では、脂習・王脩・龐淯(ほういく)・文聘(ぶんぺい)・成公英(せいこうえい)・郭憲(かくけん)・単固(ぜんこ)の7人をまとめて「純固伝(じゅんこでん)」としているそうです。

脂習の性格はうかがえたのですが、彼は医者だったのですよね? そちらに関する話がなかったのは少し残念でした。まぁ、裴松之注のみの登場ですから……。これは仕方ないか。

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