張恭(ちょうきょう)

【姓名】 張恭(ちょうきょう) 【あざな】 ?

【原籍】 燉煌郡(とんこうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・閻温伝(えんおんでん)』に付された「張恭伝」あり。

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恩愛と信義を兼ね備えた西域(せいいき)の守り人

父母ともに不詳。息子の張就(ちょうしゅう)は跡継ぎ。

黄河(こうが)の西の地域で動乱が起こり、都との交通が途絶していたころ、燉煌太守(とんこうたいしゅ)の馬艾(ばがい)が在職のまま亡くなり、役所には丞(じょう。副長官)もいなかった。

このとき張恭は功曹(こうそう)を務めていたが、学問があり品行も優れていたため、郡民から推されて長史(ちょうし)の事務を代行することになる。彼の恩愛と信義は甚だ顕著だったという。

張恭は息子の張就を曹操(そうそう)のもとへ遣わし、新たな太守の任命を求める。

このころ酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)や張掖(ちょうえき)の張進(ちょうしん)は、それぞれ不法に郡を占拠しており、張恭と力を合わせたいと考えていた。

張就は酒泉まで戻ってきたところで黄華に捕らえられ、白刃をもって強迫されたが、あくまで心変わりしなかった。

張恭は密かに届けられた張就の手紙で危難を知ったが、文中で述べられている通り、あえて息子のことを顧慮せず。

すぐに従弟の張華(ちょうか)を遣り、酒泉郡内の沙頭(さとう)と乾斉(けんせい)の両県を攻撃させる。

そのうえ別の部隊を張華の後に続かせ、さらに精鋭の騎兵200を遣り、すでにこちらへ向かっている太守の一行を出迎えさせた。

まず彼らは東へ行き、酒泉の北の砦(とりで)に沿いながら真っすぐ張掖の北の黄河に出て、新任の太守である尹奉(いんほう)を迎え入れようとした。

張進は黄華の助力を待っており、黄華も救援する気でいたが、西方にいる張恭の兵に背後を急襲されないかと心配して動けない。

やがて黄華は金城太守(きんじょうたいしゅ)の蘇則(そそく)に降伏を願い出たため、張就は無事に戻り、尹奉も着任できた。

221年、曹丕(そうひ)は詔(みことのり)を下して褒めたたえ、張恭を関内侯(かんだいこう)に封じ、西域戊己校尉(せいいきぼきこうい)に任ずる。

数年後、張恭は朝廷に召し還され、近侍の官位を授けられて息子の張就と交代することになった。しかし張恭は燉煌まで来ると、重病を理由に固辞する。

その後、張恭は曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)に死去し、執金吾(しつきんご)の官位を追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

建安(けんあん)年間(196~220年)に入っても、黄河の西にある4郡(金城・酒泉・燉煌・張掖)は都との交通もままならず、涼州(りょうしゅう)と別に雍州(ようしゅう)が置かれたほど。

そういった地域にあって、張恭のような学識や品行を備えた人物はまれな存在。そして彼も雍涼の人らしく、私事より公事を第一に考える、篤い忠心の持ち主でした。

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