【姓名】 曹林(そうりん) 【あざな】 ?
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~256年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・沛穆王林伝(はいぼくおうりんでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、沛穆王
父は曹操、母は杜氏(とし)。一名を「豹(ほう。曹豹)」ともいう。
同母弟には曹袞(そうこん)がおり、曹氏(そうし。金郷公主〈きんきょうこうしゅ〉)は同母姉妹。
息子の曹緯(そうい)は跡継ぎ。同じく息子の曹賛(そうさん)および曹壱(そういつ)は曹玹(そうけん)の跡継ぎとなった。
曹林は211年に饒陽侯(じょうようこう)に封ぜられ(封邑〈ほうゆう〉は5千戸)、217年に譙侯に移封された。
221年に譙公、222年には譙王に爵位が進んだ。224年に譙県王に改められ、226年に鄄城王(けんじょうおう)、232年には沛王に移封された。
景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、4,700戸となった。
256年に曹林が薨(こう)ずると、息子の曹緯が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『嵆氏譜(けいしふ)』によると、「嵆康(けいこう)の妻は曹林の娘だった」ということです。
ただ、この記事についてはまだ確認中のところがあります。訳書では「嵆康の妻は曹林の子の娘である」となっており、「曹林の娘」とはなっていませんでした。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の嵆康に関する記事に説得力があったので、ここは一応「曹林の娘」としておきます。
信頼のおける文献で原文などを見られれば解決しそうですから、最終的な判断は保留ということで……。
追記
嵆康が娶ったのが「曹林の娘」なのか「曹林の子の娘(つまり孫娘)」なのかについて、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)では、「曹林」および「嵆康」の項目に修正が見られました。
曹林の項目では、「嵆紹(けいしょう)の妻は曹林の女(むすめ)である」としてあった部分が「嵆康の妻は曹林の子の女である」に改められており、嵆康の項目では、「曹林の娘を娶った」としてあった部分が「曹林の孫女を娶った」に改められていました。
「嵆紹」は嵆康の息子ですから、この2か所の修正により疑問が解決したと思います。「嵆康が娶ったのは曹林の孫娘だった」というのが結論になります。ちなみに嵆康の父は「嵆昭(けいしょう)」ですけど、(孫の)「嵆紹」と混同しやすそうですよね……。
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