曹宇(そうう) ※あざなは彭祖(ほうそ)

【姓名】 曹宇(そうう) 【あざな】 彭祖(ほうそ)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・燕王宇伝(えんおううでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、燕王

父は曹操、母は環氏(かんし)。同母兄には曹沖(そうちゅう)と曹拠(そうきょ)がいる。

息子の曹奐(そうかん)は曹髦(そうぼう)が崩じた後、迎えられて帝位に即いた。

曹宇は211年に都郷侯(ときょうこう)に封ぜられ、217年に改めて魯陽侯(ろようこう)に封ぜられた。

221年には魯陽公に爵位が進み、222年に下邳王(かひおう)に移封された。その後も224年に単父県王(ぜんほけんおう)、225年に燕王に、それぞれ移封された。

235年、曹叡(そうえい)に召されて入朝し、237年に鄴(ぎょう)に帰った。翌238年夏、再び曹叡に召されて洛陽(らくよう)に上った。

同年12月、曹叡が危篤に陥り、曹宇を大将軍(だいしょうぐん)に任じて後事を託そうとする。しかし、曹宇が固辞しているうちに曹叡の気持ちが変わり、結局は罷免される形になった。

翌239年夏、曹宇は鄴に帰った。景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、5,500戸となった。

260年、息子で常道郷公(じょうどうきょうこう)の曹奐が朝廷に入り、帝位を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「曹叡は若いころ曹宇と行動をともにしていたため、特別な親愛の情を抱いていた」ということです。「曹叡が帝位に即いてから、曹宇への恩寵や下賜がほかの諸王と違っていた」ともあります。

また『三国志』(魏書・張魯伝〈ちょうろでん〉)によると、「215年に曹操が漢中(かんちゅう)の張魯討伐に出向いた際、張魯の娘を曹彭祖(曹宇)のために娶(めと)った」とあります。

曹宇に関連する記事としては、『三国志』(魏書・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉)に、「260年11月、曹宇が曹奐に冬至を慶賀する上表文を奉った際、自らを臣と称した」というものもありました。

曹奐は担当官吏に詔(みことのり)を下し、父の扱いについて礼典に基づいた意見を求めたうえ、状況に応じた敬意の示し方の結論を得ています。

父が健在なのに、その息子が帝位に即いているというのは、いろいろややこしい問題が出てくるのですね。

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