孫丞(そんじょう)

【姓名】 孫丞(そんじょう) 【あざな】 顕正(けんせい)

【原籍】 呉郡(ごぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫慎(そんしん)の息子

父は孫慎だが、母は不詳。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫桓伝〈そんかんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『文士伝(ぶんしでん。撰者〈せんじゃ〉は諸説あり)』には以下のようにある。

「孫丞は学問を好み、文才もあった。彼の作った『蛍火賦(ほたるのふ)』は世間で流行した。黄門侍郎(こうもんじろう)に任ぜられ、顧栄(こえい)とともに皇帝(こうてい)の側近として仕えた。孫晧(そんこう)の時代(264~280年)には側近の多くが罪を得たりとがめを受けたりしたが、孫丞と顧栄は無事に過ごすことができた」

「いつも孫晧はふたりに出来事の記録を担当させ、問題点があれば諮問した。その働きを見た孫晧は詔(みことのり)を下し、『今後、侍郎を任命する際は孫丞や顧栄のような人物でなければならぬ』と、ふたりを高く評価した」

「280年に孫晧が晋(しん)の司馬炎(しばえん)に降伏すると、孫丞は洛陽(らくよう)へ移住。范陽郡(はんようぐん)の涿県令(たくけんのれい)に任ぜられ大いに治績を挙げた」

「永安(えいあん)年間(304年)に陸機(りくき)が成都王(せいとおう)の司馬穎(しばえい)の大都督(だいととく)となると、孫丞は陸機に招かれて司馬(しば)を務めた。しかし、のちに陸機とともに殺害されてしまった」という。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(呉書・孫韶伝〈そんしょうでん〉)によると、「(孫丞の曾祖父の)孫河(そんか)はもともと愈姓(ゆせい。愈河)で、孫氏と同じく呉郡の人だった。孫策(そんさく)は愈河を寵愛し、孫姓を与えて一族の籍に加えた」ということです。

その一方、同じく「孫韶伝」の裴松之注に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、「孫河は孫堅(そんけん)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)であり、姑(おば)の愈氏の養子となったが、のちに孫姓に戻った」ということでした。

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人物データ 呉の孫氏
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