公孫瓚(こうそんさん) ※あざなは伯珪(はくけい)

【姓名】 公孫瓚(こうそんさん) 【あざな】 伯珪(はくけい)

【原籍】 遼西郡(りょうせいぐん)令支県(れいしけん)

【生没】 ?~199年(?歳)

【吉川】 第017話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫瓚伝』あり。

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一時は河北(かほく)に大きな勢力を張るも、易京(えきけい)とともに散る

父母ともに不詳。公孫続(こうそんしょく)という息子がいた。

初め公孫瓚は、遼西郡の門下書佐(もんかしょさ)に任ぜられた。容姿に優れていたうえによく通る声の持ち主だったため、侯太守(こうたいしゅ)はその人物を認め、自分の娘を嫁がせたという。

侯太守の計らいにより、公孫瓚は涿郡(たくぐん)の盧植(ろしょく)の下で経書(けいしょ)を学び、そのころ同じく遊学していた劉備(りゅうび)らと知り合った。

後に郡の役人として復帰。やがて孝廉(こうれん)に推挙されて郎(ろう)となり、遼東属国長史(りょうとうぞっこくちょうし)に任ぜられた。

鮮卑族(せんぴぞく)討伐の功によって涿県令(たくけんれい)に昇進。その後も騎都尉(きとい)、中郎将(ちゅうろうしょう)と昇進し、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

189年、董卓(とうたく)の意向で奮武将軍(ふんぶしょうぐん)に任ぜられ、薊侯(けいこう)に封ぜられた。

193年、対立を続けていた、大司馬(だいしば)の劉虞(りゅうぐ)を処刑。

一時は幽州(ゆうしゅう)・冀州(きしゅう)・青州(せいしゅう)・兗州(えんしゅう)の4州にまで勢力圏を拡大したものの、たびたび袁紹(えんしょう)に敗れると、堅固を誇った易京に立て籠もった。

199年3月、袁紹の大攻勢を受けて敗北を悟り、妻子を殺害したうえ自殺(異説もある)した。

主な経歴

生年は不詳。

初め遼西郡の門下書佐を務め、侯太守に見込まれて娘を娶(めと)った。

-175年-
このころ侯太守の計らいにより、涿郡の盧植の下で経書を学び、劉備らとも知り合う。

-?年-
この年、郡の役人に復帰。太守の劉基(りゅうき)が法に触れ、廷尉(ていい)のもとに連行された際、公孫瓚は変装して囚人護送車の御者となり、自ら雑役を引き受けた。

劉基が日南郡(にちなんぐん)へ流されることになると、公孫瓚は米と肉を供え、北邙山(ほくぼうざん)で先祖を祭って(先祖に)別れを告げた。結局、劉基は途中で赦免され、公孫瓚も帰還できた。

-?年-
この年、孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史に任ぜられた。

-?年-
この年、鮮卑族討伐の功により涿県令に昇進。

-187年-
6月、漁陽郡(ぎょようぐん)の張純(ちょうじゅん)が、同郡の張挙(ちょうきょ)とともに反乱を起こす。これらの討伐に活躍し、騎都尉に昇進。

-188年-
9月、中郎将の孟益(もうえき)に付き従い、張純らの討伐を続ける。

11月、石門山(せきもんざん)で張純を大破。

この年?、属国の烏丸族(うがんぞく)の貪至王(たんしおう)が部族民を引き連れ、公孫瓚のもとに来て降伏を願い出た。

公孫瓚は中郎将に昇進したうえ、都亭侯に封ぜられ、遼東属国に駐屯。周辺の異民族と5、6年にわたって攻防を繰り返す。

しかし、烏丸の丘力居(きゅうりききょ)らが青州・徐州(じょしゅう)・幽州・冀州の4州を荒らし回ると、公孫瓚には防ぎ止めることができなかった。

この年、霊帝(れいてい)が、宗正(そうせい)の劉虞を幽州牧(ゆうしゅうぼく)に任じ、周辺の異民族の鎮撫(ちんぶ)を委ねた。

劉虞の説得に応じ、丘力居らは通訳を介して帰順を申し出る。公孫瓚は劉虞の手柄を妨害しようと、密かに人を遣り、烏丸の使者を刺殺させた。事情を知った烏丸は、間道づたいに劉虞のもとへやってきた。

劉虞は上表して各地の駐屯軍を引き揚げ、公孫瓚だけを留めると、歩騎1万をもって右北平(ゆうほくへい)に駐屯させた。

-189年-
3月、鮮卑族の中に逃げ込んでいた張純が、食客の王政(おうせい)に殺害され、その首が劉虞のもとに届けられる。王政は列侯(れっこう)に封ぜられ、劉虞も太尉(たいい)に任ぜられたうえ、襄賁侯(じょうほんこう)に封ぜられた。

9月、献帝(けんてい)が太尉の劉虞を大司馬に任じ、司空(しくう)の董卓が自ら太尉に就任する。公孫瓚も奮武将軍に任ぜられ、薊侯に封ぜられた。

-190年-
1月、関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)で反董卓連合軍が決起。

2月、董卓が献帝を脅迫し、長安(ちょうあん)への遷都を強行。董卓は劉虞を召し寄せて太傅(たいふ)に任じようとしたが、道がふさがっており、任命を伝える使者が行き着くことができなかった。

-191年-
春、袁紹が韓馥(かんふく)と相談し、劉虞を皇帝に推戴しようとしたが、劉虞は聞き入れず。

このころ劉虞の息子の劉和(りゅうか)が、侍中(じちゅう)として長安にいた。献帝は洛陽(らくよう)へ戻りたいと考え、劉和に、密かに武関(ぶかん)から出て劉虞のもとへ行き、軍勢をひきいて迎えに来させるよう命じた。

劉和は袁術(えんじゅつ)の領内を通ったとき、袁術にも献帝の意向を伝えた。だが袁術は、劉虞から援助を引き出そうと考えて劉和を引き留め、劉虞の軍勢が到着した後、ともに西へ向かうことを承諾。劉和に劉虞あての書簡を書かせた。

劉虞は書簡を受け取ると、劉和のもとへ数千の騎兵を派遣しようとした。公孫瓚は、袁術が二心を抱いていることを見抜いていたため、思いとどまらせようとしたものの、劉虞は聞かない。

公孫瓚は袁術の恨みを買うことを恐れ、従弟の公孫越(こうそんえつ)に1千騎を付けて遣わし、袁術と手を結ぶ。一方で密かに劉和を逮捕し、劉虞が派遣した軍勢を奪い取るべく策動。このことから、公孫瓚と劉虞の仲はますます険悪になる。

劉和は袁術のもとを逃れて北へ向かったが、ここでも袁紹に引き留められる。

このとき袁術は孫堅(そんけん)を陽城(ようじょう)に駐屯させ、董卓にあたらせていたが、袁紹が配下の周昂(しゅうこう)に命じてその陣地を奪わせた。

袁術は、公孫越と孫堅に周昂の攻撃を命じたが勝てず、流れ矢に当たった公孫越が戦死。公孫瓚は従弟の死を招いた袁紹に激怒し、兵を出して磐河(ばんが)に駐屯した。

袁紹は恐れを抱き、身に帯びていた勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を公孫瓚の従弟の公孫範(こうそんはん)に与えると、公孫範を勃海へ赴任させることで、公孫瓚と友好関係を結ぼうとした。

ところが、公孫範はそのまま勃海の郡兵をひきいて公孫瓚に助勢し、青州と徐州の黄巾賊(こうきんぞく)を撃破した。

-192年-
1月、公孫瓚は、袁紹と界橋(かいきょう)で戦ったものの大敗。

公孫瓚は厳綱(げんこう)に冀州を、田楷(でんかい)に青州を、単経(ぜんけい)に兗州を、それぞれ治めさせるなどし、郡や県の長官を任命した。

4月、司徒(しと)の王允(おういん)が呂布(りょふ)と共謀し、董卓を誅殺。

献帝は段訓(だんくん)を遣わし、劉虞に6州を治めるよう命ずる。公孫瓚は前将軍(ぜんしょうぐん)に昇進し、易侯(えきこう)に封ぜられた。

この年、袁術の救援要請に応え、劉備を高唐(こうとう)に、単経を平原(へいげん)に、陶謙(とうけん)を発干(はっかん)に、それぞれ駐屯させて袁紹を圧迫した。

しかし、曹操(そうそう)が袁紹に協力して劉備らを攻めたため、みな討ち破られてしまった。

袁紹は広川(こうせん)に軍営を置き、将軍の麴義(きくぎ)を先陣として公孫瓚と戦い、厳綱を生け捕りにした。敗れた公孫瓚は勃海へ逃走、こののち公孫範とともに薊まで戻った。

公孫瓚は薊の大城の東南に小城を造営したが、これが劉虞の居所と近かったため、双方の敵意が次第に高まった。

-193年-
?月、劉虞から攻撃を受ける。これを撃破したところ、劉虞は居庸(きょよう)へ逃走。そこで居庸を攻略し、劉虞を捕虜として薊に連れ帰った。

10月、公孫瓚は、劉虞が皇帝を僭称(せんしょう)しようとしていると誣告(ぶこく)。使者として来ていた段訓を脅迫し、劉虞を斬刑に処した。公孫瓚は上表して、段訓を幽州刺史(ゆうしゅうしし)とした。

こうして公孫瓚は慢心し、人の過失は記憶にとどめ、その善行は忘れ去り、多くの人々を毒牙にかけるようになった。

劉虞の配下で従事(じゅうじ)を務めていた鮮于輔(せんうほ)と斉周(せいしゅう)、同じく騎都尉を務めていた鮮于銀(せんうぎん)らは、幽州の軍勢をひきいて公孫瓚に復讐(ふくしゅう)しようとし、皆で閻柔(えんじゅう)を烏丸司馬(うがんしば)に推し立てた。

閻柔は烏丸族と鮮卑族に誘いかけ、異民族と漢人(かんじん)からなる数万の軍勢を組織。公孫瓚配下の漁陽太守(ぎょようたいしゅ)の鄒丹(すうたん)を潞北(ろほく)で大破し、鄒丹を斬り殺した。

-195年-
この年、袁紹が、部将の麴義と劉虞の息子の劉和に軍勢をひきいさせ、鮮于輔と合流して攻めてきた。この軍勢と鮑丘(ほうきゅう)で戦ったものの大敗。

公孫瓚は敗北を重ね、易京へ逃げ帰って守りを固める。易京の守りは堅く、袁紹軍の攻撃を何年にもわたって退けた。

-197年-
春、袁術が寿春(じゅしゅん)で皇帝を僭称。

-199年-
?月、袁紹が全軍を挙げて易京を包囲。公孫瓚は、息子の公孫続を黒山賊(こくざんぞく)のもとへ遣わして救援を求める。

一方で自身も騎兵をひきいて突撃し、袁紹軍の包囲を突破して黒山賊と合流、冀州を荒らして袁紹の背後を断ち切ろうと考えた。しかし長史(ちょうし)の関靖(かんせい)から、出撃を思いとどまるよう説かれたため中止した。

公孫瓚は、公孫続のもとへ使いを遣って期日を定め、黒山の援軍が到着したら、烽火(のろし)を上げて知らせるように伝えた。ところが袁紹の斥候がこの手紙を手に入れ、偽って烽火を上げた。

公孫瓚は援軍が来たものと思い、出撃して袁紹に戦いを挑んだが、伏兵に遭って大敗。引き返して再び守りを固めた。袁紹は地下道を掘らせて易京の城楼を突き崩し、公孫瓚のいる中央の土山へ少しずつ近づく。

3月、公孫瓚は敗北を免れないと悟り、妻子を殺害したのち自殺(異説もある)した。

管理人「かぶらがわ」より

正史『三国志』のひとつの傾向ではありますが、この公孫瓚の伝についても時間的な経過がつかみにくかったです。

吉川『三国志』や『三国志演義』での公孫瓚は、劉備の兄貴分的な存在として善人っぽく描かれていましたが、実際は領土拡大の野心を持った群雄のひとりだったようです。

印象に残ったキーワードとしては、「イケメン」「美声」「易京」といったところでしょうか。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』にも公孫瓚の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにも興味深いエピソードがあるようです。

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